平成十五年の「足利氏ゆかりの会」は十月二十七〜八日、関東の茨城県古河市で開かれた。初日に歴代法要を足利成氏公菩提の満福寺で営み、記念講演は東大史料編纂所の山田邦明教授だった。要旨は左記の通り。
@足利氏の特性
歴代征夷大将軍には三十九人がなった。鎌倉幕府九人、室町幕府十五人、江戸幕府十五人。その中で一見室町将軍の影が一番薄いようだが最も個性が強かった。
鎌倉将軍は二代目以降政治の実権を殆ど執権北条氏に握られ、江戸期も初めの頃と八代将軍吉宗以外は雲の上の霞のようだった。それに比べ足利各将軍は自我が強く、そのため親族間の争い等も多発した。
A鎌倉と京都
尊氏は本当に室町在府を望んでいたのか。政争上やむなく京都に在留し、鎌倉復帰を希っていたのではないか。そんな執念の尾が鎌倉公方を増長させ、東西公方確執の遠因となったのではないか。
B職責と寿命
当時は十歳迄は子供、十五歳で元服、二十歳で相続、三〜四十歳が働き盛り、以後は隠居か後見役。だから権力を握った二十歳代が最も危険な年齢。京鎌倉間の争乱も当主のその年頃に発生している。そんな日々で命を削り短命だった。
かって天皇家も同様だったが、政権が武家に移ると長命になった。
C東西の専制君主
五代将軍義量が若死し、大御所四代義持も後任を定めず歿した。そこで幕府重臣達は籤選で六代目を義教と決めた。 すると新将軍義教は、それを根に持つ鎌倉公方持氏を誅伐。武断政治で畏れられたが、身らも重臣赤松満祐に謀殺された。
鎌倉持氏の遺児成氏は傑物で古河に蟠踞、幕府に敵対し、子や孫も踏襲した。
D地方の変貌
成氏はなぜ古河に拠ったか。戦乱で人や物が大きく動き関八州にも地方都市が発生。特に物流は河への依存が大で、当時の古河はその一拠点だった。だから鎌倉に固執しなかった。関宿も同様だった。大河は今ならさしずめ高速道路か。
公方成氏は先の読めた人物であった。持氏は恐れられ、成氏は慕われた。*「ここが肝心」の講師の発言に(笑)
当時の古河はナウイ都会だったが、河の流れと共に変わっている。
E東西公方の分裂と相剋
西に起きた応仁の乱は、大した事件でなく十年で終わった。その後の十代義稙は、出陣中に謀反で逐われ,周防の大内氏の援助で復職したのに再び重臣に追放され、「流れ公方」の身で没した。その猶子義維は、阿波公方の祖とされている。
古河公方にも分裂があった。成氏の子政氏は嫡男高基に敗れ、久喜に隠棲して久喜公方と呼ばれた。高基弟義明も兄高基と対立、千葉で小弓公方と称された。
その他、幕府から別に関東に送り込まれた堀越公方政知もおり、複雑だった。
かくて世は大小名の切り取り勝手の戦国時代となり、東西足利公方家の勢威は衰退して行くばかりであった。
Fそれでも生き残った
平家や北条氏一挙に消えた。でも足利氏は分裂のお陰で血脈は残った。東は小弓公方、西に阿波公方の流れである。
鎌倉源氏や北条氏は懸命に働き過労死した。でも足利氏は力を分散し、手軽な政治をやっていたお陰で生き残った。
こんな話、全部信用しなさんな。(笑)
翌日は古河総合公園を参観。古河公方由緒の館址は整美され、今年のユネスコ主催「文化景観の保護と管理に関するメリナ・メルクール賞」に選ばれている。
そんな年に当地で「全国足利氏ゆかりの会」が開かれ、深い感慨を覚えた。