山家城址・武家屋敷・覚応寺の金剛力士像について   覚応寺HP 山家・旭町寺の前  綾部の文化財一覧表へ  綾部の文化財
山家資料舘々長・常任幹事 塩見光夫
(1)左衛門屋敷跡
広瀬町伊也神社から徒歩約30分、甲ヶ峯の頂上にあり、戦国時代和久左衛門佐の居城跡である。屋敷跡、空堀跡、和久氏の氏寺であった照福寺跡がある。
 現在は桧の植林地となっており視界は遮られているが、以前は遠く綾部の町並みまで見渡せる一大パノラマが開け、眺望絶佳であった。明智光秀が丹波を平定した時、城の破却を命ぜられたが、和久氏は寺であるとして応じなかったため追討され、和久氏は滅亡した。天正八年(1580)六月照福寺は、その後、馬場町に移り、さらに現在地の鷹栖町小丸山三三に移った。照福寺は代々和久氏を名乗っている。(2)谷氏館跡(現在の城址公園一帯)
 谷衛友(もりとも)が天正十年(1582)秀吉より丹波國何鹿郡の内、一万六千石をもって山家郷に封ぜられたに始まる。此の内訳は奧上林、口上林、山家、東西八田、位田、吉美、志賀郷、と何鹿郡内全域の山からの運上金であった。知行目録は「山家資料館」にある。 
 この地は上林を通っての若狭ルートと横峠を経ての丹後ルートの合流点であり、丹後から京に通じる主要道路を扼する戦略上重要な地点であった。
 その城構えを見るに、上林川、和知川を外堀とし、西側は上林川からそびえ立つ急斜面であり、敵襲のとき逆茂木とするため樫の木が植えられていた。その一部は今も西北の隅に残っている。北側は空堀を堀り、高い石垣を巡らしている。東側は石垣の外に上林川に通じる二本の堅堀を備えている。 当時の武器をもってしては難攻不落の要害であった。
 慶長五年(1600)関ヶ原の役が始まると谷衛友は西軍の一翼として舞鶴田辺城に細川藤孝(幽斎)を包囲したが、かねてから幽斎と親交があったらしく、弾丸を込めず空砲を撃った。「谷の空鉄砲」と呼ばれている。
 古今伝授の継承者である幽斎の戦死を恐れた朝廷からの勅使の勧めにより西軍は囲みを解いた。東軍勝利の後、細川氏のとりなしによって谷氏は所領を満額安堵された。
以後、細川氏と谷氏との間に親交が続き、細川氏が豊前中津へ転封になった時、細川氏自らが資材を持参して山家城下の橋を掛け替えて通り、その後、度々橋が流失した時、肥後の細川氏から資金の援助があった模様で、谷藩ではこれに感謝の意を表すためこの橋を「肥後橋」と呼ぶようになり、今日に至っている。肥後橋から城に通じる坂道も「肥後坂」と呼ばれている。
 谷衛友は一万六千石の内、六千石を三人の子供に分け与え、上杉二千五百石、十倉二千石、梅迫一千五百石の旗本として分家させ徳川幕府への忠勤を示した。上杉二千五百石は子供が無く絶えたが、他の二分家は陣屋を持ち明治維新まで続いた。
 衛友の肖像画が残っているが、農民か木樵のような服装であり、極めて質素な生活ぶりがうかがえる。歴代藩主は家臣団や領民への気配りも怠らず、家臣に与えた自作自筆の和歌や絵画、領民の高齢者を表彰して与えた軸もの等が残っている。
 このような幕府や家臣団、領民への配慮があってか、山家藩は豊臣秀吉以来明治維新まで、減封、転封も無く、ずっと一万石のまま続いた。これは希有のことである。
(3)山家唯一の武家屋敷
 城址公園への手前左側に道家邸がある。もと添田邸であったが、道家勧氏が買い取り、さいわい長男の嘉之助氏が一級建築士であったため原型に忠実に修復された。
 山家藩の高級武士の邸宅がどのようなものであったかを如実に知ることができる。
 しかし、維持管理には相当の困難が伴うと思われるので、「文化財を守る会」が中心となって文化庁等の補助金の交付を働きかける等、その保存に協力する必要があるのではないかと思われる。
(注)山家谷藩道家家の上席家老を示す「一番槍」左上の写真の一番槍の上部の「金の蕪巻(かぶらまき)」がそれを示している。
(4)覚応寺の金剛力士(仁王像)について
 もと願成寺と言ったが、廃寺同然となっていたものを、第二代藩主衛政が谷家の菩提寺として小さいお堂を改修し、塩谷山覚応寺と命名した。第三代藩主広公の帰依厚く、方丈、庫裏、阿弥陀堂、仁王門、鐘楼を造営し寺観を整えた。阿弥陀堂は明治三十年大改修を行ったが、その後、堂の守りが難しく、福知山市興の人・日本茶道会の田中仙氏に買われ、現在も汽車から見える青い屋根の「法輪殿」として大切に保存されている。
 仁王門にあった金剛力士像は願成寺の遺物で、運慶の作と伝えられているが、昭和四十四年危うく海外流出となるところ、京都国立博物館に買い上げられ保存されている。事実この仁王像の事件を契機として「綾部の文化財を守る会」が結成されたと聞いている。イギリスには「国立美術品蒐集保存基金」があり美術品の海外流出を防いでいると聞く。綾部にもこのような公的基金が必要なのではなかろうか。
覚応寺の金剛力士(仁王像)について
右掲載の旭町「覚応寺」の仁王像の写真を参照ください。
 現在、京都国立博物館に保管されほぼ、十年に一回陳列展示される。
1)金剛力士像(阿形)・覚応寺伝来
 木像彩色・鎌倉時代

 京都府綾部市の覚応寺に伝来。筋骨などの部分を誇張しながら穏健にまとめ上げている。丹波地方を代表する仁王の一例。
2)金剛力士像(吽形)・覚応寺伝来
 木像彩色・鎌倉時代
 口を結ぶ阿形に比べて力感表現を主とし、それ故に全体のまとめ方に失敗した感もある。力み過ぎが一種の滑稽味を生んだ。(いずれも京都国立博物館の解説による。)