広畔堂跡  豊里 栗町   綾部の指定文化財一覧表へ  綾部の文化財

綾部藩の文教政策
 九鬼氏歴代学問を重んじ、特に九代隆都公山鹿素水を招いて兵学をおさめ。幕臣大野広城を預かり、奥山弘平佐藤信淵をまねいて治世と経済立て直しの大方針を確立し、蘭学者であり名医であった新宮涼庭を接見して、治国平天下の道を説かしめた。更に十代隆備は、山崎闇斎派の学者三上是庵を、また藩医として増山守正を招いた。これらの人々と藩士の近藤勝直等の教化が相まって幕末から明治にかけて綾部の教育文化の担い手となった近藤勝由沢井広重宮崎清風等を生んだ。

藩校および郷学校
 綾部藩では四代隆寛の頃、藩校進徳館と改め、藩士の教育に力を注いでいたが、慶応元年、十代隆備は藩の碩学近藤勝直を総督に任じ、大いに藩校を充実すると共に、領内栗村高津小畑六ケ所郷学校を建てて庶民教育に努力した。中でも栗村広畔堂は、郷学校中随一のもので、近藤勝直の高弟沢井広重専任教師として指導にあたった。門人には羽室嘉左衛門芦田鹿之助波多野鶴吉他地方のために活躍した人を多数輩出し、明治における綾部発展の基礎となったことは郷土の教育史上特筆すべきである。
 封建制度下百姓町民も自由に入りうる学校藩の力で作られたことは日本の歴史のうちでも稀なことで、綾部はおろか遠く亀岡あたりからも入学を希望して多くの人が集まった。
 こうしてこれらの郷学校明治五年学制発布によってその伝統を受け継いでいく各地小学校として発展して行った。
丹の国綾部 第四話 九鬼氏と綾部の人々より引用 (綾部青年会議所編
史蹟 廣胖堂跡
慶応2年(1866)8月、十代綾部藩主九鬼隆備が郷学校として、この地に廣胖堂を設立する。明治6年、廣胖尋常小学校となり、後に彛典校と統合し、明治26年、以久田尋常小学校となる。 (石碑裏面の彫刻文)