新熊野神宮 初詣参拝風景 綾部 並松町 綾部の文化財一覧表へ 綾部の文化財
新熊野神宮 大鳥居 | 石碑 | 王仁三郎聖師 謹書の石碑 |
神能(の)子の 真心をうけて 拡めたる 御苑(みその)清(すが)しも 石の玉垣 苔生(む)して 神さび立てる ときわ木の 松にしるけし 水無月の宮 大正十年十月 王仁謹書 綾部の文化財を守る会 四方續夫事務局長記:小生も副委員長としての責任を果たすべき、聖師様の歌を読めるよう、努力し、山崎先生とも読みましたが、大本教の真理が入っており不完全で、高木(旧姓:伊藤)明彦氏(旧姓での昭和61年発行の「きりのしょう」で知る人ぞ知る。)、現綾部いかるのパーソナリテイ(大本教)に読んでもらい下のように理解できました。「神能(の)子の真心をうけて 拡めたる 御苑(みその)清(すが)しも 石の玉垣 苔生(はえ)して 神を飛び立ちる ときわ木の 松にしるけし 水無月の宮」 大正十年十月 王仁謹書 追伸:綾部の文化財を守る会の会員、出口三平氏から、更に「苔生(む)して 神さび立てる」であり、木札にも不備があるとの、ご指摘がありました。 |
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神殿参拝 | 神殿 祭壇 | 脇社 参拝 |
境内社 | 境内社 内部 | 脇社 |
誰か、新熊野神社境内にある「王仁三郎聖師の碑文」を読んでください。 石碑に添えられた立て札(碑文)の写真です。 熊野神社迷走記: 歴史、文化財の門外漢のHPづくりで苦労しています。疑問点が続出中。 ・HP作成に当たり、綾部の文化財を守る会の事務局長の四方續夫氏から預かった資料。 駒札設置個所一覧とその現況報告では、「綾部、熊野神社、並松町」とあり、そのままHPに収録しました。井根町の日園寺が抜けていることに気がつき追加。 ・この他に綾部市観光協会が独自に建てられた黄色い駒札、綾部八幡宮 などがあるようですが、その他の設置個所の詳細は掴んでいません。 ・志賀郷別所町の熊野神社に取材に行くと、駒札が立っていました。 ・熊野十二所権現の本地仏が隣の願成寺とに分置されていて、藤原時代に流行した浄土教の影響であるということです。 ・黒谷和紙会館の川沿いの道を奥に進むと突き当たりにも熊野神社があります。参拝されていた和紙透きのご婦人に伺うと相当古い由緒のある神社のようです。 ・神社の前で黒谷川をわたりすぐ先に峠の地蔵があり、山中を志賀街道が蓮華寺峠に通じています。その河原に平家の落ち武者の「切られ」があり祠が祀られているとのこと。 蓮華寺峠には鳥居印があり、権現さんがあったとのことです。 ・八代町には奇妙な形の岩を2ケ並べた浦島神社があり、その二つの岩から蓮華寺峠の権現さんを拝むとのことです。 ・丹後半島一周研修で浦島伝説で有名な浦嶋神社に行きましたが海辺でした。 ・何故山の中に浦島神社があるのか。真北の舞鶴市境は、三角点名:瀬戸=字名です。山の中なのに何故、瀬戸。 ・三角点の近くに丹後と丹波を結ぶ道標(風化して文字が読めない)があります。昔の交通の要所であったのかも。 ・この八代町の山上にも、平家の落ち武者の「キラレ」があるとのことです。 ・浦島神社の川向かいに八代神社があります。安倍貞任(さだとう)・宗任(むねとう)兄弟が前九年の役(1051年)で源頼義に敗れたが、真倉の不動さんがここの裏になり、そこから宗任は落ちのびてこの地で死んだという伝承があり、八代神社に祀られているとのことです。 ・平重盛卿が勧請したと伝えられる熊野神社が、正暦寺周辺にあったと聞いていますので、これが並松の新熊野神社だとすると、熊野神社には、平安時代流行した浄土教の影響の社と、九鬼藩(水軍)綾部封土による影響の二系統が有るような感じです。 ・並松の新熊野神社もこの正月に取材しました。九鬼藩の陣屋跡で綾部封土後、間もなく火災で焼け、九鬼藩は以後、陣屋も城も造らず、綾部小学校に門があった九鬼館に住んだと言うことです。(山崎巌先生に確認済み) ・子供の頃、美空ひばり、雪村いずみ、江利ちえみショーなど、大きな会館?が建っていて見た覚えがありますが、この新熊野神宮社殿は何時ごろ建てられたのでしょうか。 ・大本弾圧(第2次)で弥勒殿、月山不二の聖地まで悉くの建造物、石碑に至るまで時の官憲の暴挙により破壊されたと言われています。 ・この大正十年十月 王仁謹書の石碑は、無事難を逃れたものでしょうか。 ・歴史の門外漢には、謎が一杯に続出。なかなか面白いものです!。 |