日圓寺(にちえんじ) 上林 井根町 綾部の文化財一覧表へ 綾部の文化財
本尊 聖観音菩薩 真言宗高野山派に属している。寺伝によれば、聖武天皇の天平19年(747)行基菩薩の開創という。 頭巾山、君尾山、蓮ケ峰、弥仙山等修験道の一連の行場として開かれたものであろう。 延喜22年(922)空也上人再建。七堂、一門、十九坊を有したという。丹波国及び何鹿郡三十三ケ所の札所となっている古刹である。 天平年間、仁王門、三重塔等すべて兵火にみまわれ、寺の段、仁王門、湯屋等の地名に名残をとどめている。塔跡には五重の石塔がある。 綾部市観光協会 綾部の文化財を守る会 蓮ケ峰(八葉ガ峰)と日圓寺縁由記 *歴史の道探訪:丹波の山の登山書などから集めました資料によると、「修検者道」の中に「日圓寺」の名が出ています。 *吉田晟さまからの「何鹿郡史蹟概梗(42)」口上林村井根の「日圓寺」に蔵する縁由記によれば・・」の資料をいただきました。 *吉田晟様から、綾部市史談会の川端二三三郎先生にお願いして、漢文からの口語訳をお世話になりました(筆記)。文字入力してご紹介します。 日円寺: それ丹波州(丹前)何鹿郡上林郷井根村中照山日円寺開基のはじまりは、人王四十五代聖武天皇厚く仁政をひき、国内は無事に治まった。 而して三宝(仏法)を敬い神祇を崇重し徳沢は八州に満ち臣下(外)は鋭意天下庶民を治め恩波は四海にあふれた。特に恩爾(勅命)を諸国に賜い行基大士をして諸大寺を建たしめた。 この時、菩薩(行基)は此の地に来遊し、山の形たるや八葉連綿して蓮華の如く、中峰は突出して宝珠の如く、而して周囲の地形は閑雅絶勝(しずかですばらしく)自ずから塵俗を脱す。因ってここに伽藍を造営し、みずから聖観音の尊像をきざみ、もって本尊とし中照山日円寺と号した。 而して、とりまく力蔵坊、明王院等の十九坊及七堂三門、弥陀の玉堂、五間表多宝塔、鐘楼、仁王楼閣、護摩堂等その結構(すがた)は善美を尽し、珠髪は日に映え、宝鐸は月に輝き、遠くは華水山日閼伽(あか)の潤(たに)、近くは湯屋を呼称する浴室を構え、殿内二季修制す。 詣ずる者随喜の涙をもよおし、有信の者渇仰の袂をぬらすなり、是を視れば目をおどろかし、是をきけば耳をおどろかす。然りといえども日に月に(年月とともに)おとろえ、ゆかりの人なく、力をかす者乏しく、寺閣高楼は荒廃して年久きなり。醍醐天皇の時代、空也上人がたまたまこの地に来たりて、鎮護国家の霊場しばしば荒廃するを嘆き、再び伽藍宮殿楼閣を 起し、荘厳本に帰すなり。時に天正年間、織田信長等天下を洪乱し、兵火の災に罹りて、寺宇(建物)ことごとく消失す。 わずかに日円寺本堂、地蔵堂、山門、仁王門等遺るといえども復昔日の観なし。ともに寺録六十余石をうしなう。惜しむべしという。 2003.2.24 綾部史談会:川端二三三郎記(注:句読点を追加入力) ------------------------------- 漢文を口語訳にお世話になった綾部史談会の川端二三三郎先生に感謝申し上げます。また於与岐在住の文化財を守る会の会員である、吉田晟、吉崎孝典両氏に世話になりました。ここに厚く御礼申し上げます。この記事は、吉崎孝典編HP「弥仙山の四季」より転写しています。 「郷土誌東八田」から年代順に書き出してみました。 701〜703年奈良時代 行基(668−749)が文武天皇の大宝年間に弥仙山が開かれ「行基菩薩(ぼさつ)とあがめられた。 729年 上杉に西照寺、東照寺など12の坊の寺がたつ。 947年 空也上人、弥仙山金峯神社を祀る 1579年 戦国時代、弥仙山神殿などが焼き討ちされる。 1612年 金峯神社石造りの神殿仮祭紀する。 1628年 金峯神社神殿改築す。 |
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