高倉神社 吉美 高倉町 「天一さん」の「ヒヤソ踊」 綾部の文化財一覧表へ 綾部の文化財
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| 石段、鳥居、拝殿へ | 鳥居と拝殿 | 常夜灯 | ||||||||||||||||||
治承年間、平清盛横暴を極め壇に朝権を寿し、畏くも後白河法皇を幽閉し奉りしを以て、孝心深き第二皇子高倉宮以仁王は、父君を幽閉より救い、更に皇室の隆盛を挽回せんと、源三位頼政に令旨を下し賜ふ。頼政奉じて勤王の兵をあげ、治承の難に至る。 逸道の激戦に官軍利あらず、頼政は宇治の平等院で自刃。宮は南都へ御落延の途中光明寺下で流れ矢に当たり、薨御と偽り、実は近臣大槻光頼、渡辺俊久等十二士と潜に頼政の領地丹波路に供奉し、宮をして一時の危難を避け奉りしが、宮は不幸当地に御着馬の頃から、御矢傷次第に重く、治承四年六月九日吉美郷里村で薨御し給ふ。 翌養和元年九月九日神霊を奥谷の森合の高倉に(現在地)奉遷し、高倉天一大明神と勧請せり、 尓来御神徳は四方に輝き、世直しの神、五穀豊穣、万病平癒、殊に胃腸病の快癒に御霊験高く、腹痛救護の神と世人の崇敬を聚め給ふ。 降って元文年間神殿挙げて回録に罹り、旧記神宝悉く鳥有に帰したが、御神像のみ火中より収めて神殿に奉安した。神殿の再建は延享三年に落成したが、建設以来星霜を閲し、再び廃頽に傾き、明治四十年再建を計画、同四十三年八月竣工、旧神殿は拝殿に改造し、新たに神殿竝びに透塀を造営、神域も拡張した。更に昭和五十三年奉紀八百年を記念し、宮の遺徳を追慕顕彰せん為、拝殿の前に神札授与所、大鳥居附近の参道石畳の新設、社務所の修復、新社務所の屋根の葺替、駐車場の新設等、広く氏子竝びに十二士後裔その他信仰者有志の多額の寄進を得て、昭和五十五年文字通り神社の面目一新、近郷稀に見る神社として整備された。 高倉神社社務所
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| 名木 杉の御神木 | 拝殿正面 | |||||||||||||||||||
| 拝殿と本殿 | 拝殿上部の彫り物 | 本殿 | ||||||||||||||||||
天一さんとよばれる高倉神社は、養和元年(1181)高倉以仁王(もちひとおう)をまつった古社である。祭礼は吉美地区六町の総社として、十月十日に行われ、高倉町の本社から里町の御旅所へ神輿の行列があり、ヒヤソ踊りは、この祭礼に奉納される田楽である。 この田楽は、中世に始まると思われ、昭和五十一年綾部市指定文化財に指定されている。 平成6年3月 綾部市教育委員会 |
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| 十二士神社など | ||||||||||||||||||||
高倉神社の御祭神、以仁王は、治承四年(1180)六月吉美郷里へ辿りつかれましたが、矢傷が悪化して十二士や里人の介護もむなしく崩御されました。 以仁王は矢傷の腹痛の激しさの中で「私が他界したら、この様な腹痛の苦しみを後世の万民が味わう事のないよう救い守護しよう」と仰せられました。 人間の身体内の大切な臓器を五蔵(心、肺、肝、脾、腎)といいます。笹の中にはこの五蔵を活性化させる成分を多量に含んでいます。健康飲料としてお茶代わりに用いる人もあります。 又、以仁王を奉じた源氏の紋は、笹りんどうで五葉の笹を紋にしていますが、五葉の笹は、ちょうど手の指を広げた形になります。 境内には昔から美しい大きな笹がたくさん生育していました。人々はこの中から五葉の葉をつけた笹を探し出して、以仁王の優しい掌として家に持ち帰り、守護を頂いて居ります。 少しでも多くの人が、お陰を頂かれますことを願っております。 高倉神社社務所 |
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| 八坂神社 | 天照皇大神宮 | 伊邪那伎・伊邪那美神社鳥居 | ||||||||||||||||||
| 大地主神社鳥居 大地主神社(左) 伊邪那伎・伊邪那美神社(右) 2本の夫婦杉を後ろにして | ||||||||||||||||||||
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綾根の文化財 第55号より |
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