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山家の館址にたって  伊藤喜久氏
山家資料館 鍋 師  有

 編集者注:写真の出演者は、綾部塾の少し以前の皆様です。

山家の館址にたって   伊藤 喜久 氏   文化財を守る会会報 第8号 唱和49年記事より
 旧山家藩谷氏の館址は、由良川と上林川の合流する広瀬町成山の地にある.館址には谷氏の祖先を祀る谷霊神社があり、その右手の山の中腹には、大日霊貴命・素 鳴命・月夜見命を祭神とする伊成神社がある。だが、今では石垣だけが谷氏十四代、287年にわたる栄枯盛衰の名残をとどめるのみである.
 谷衛友(これとも)が山家藩一万六千石を豊臣秀吉より与えられたのは、天正十年(1528)六月の山崎の合戦の後である.谷氏の祖先は、近江国甲賀郡長野の地頭であった.衛友の父衛好は斉藤道三の家臣であったが、のちに織田信長に仕えた.
 衛友は、慶長五年(1600)の関が原の役では、丹波の大名小野木氏・石川氏・高田氏・藤懸氏・川勝氏・前田氏とともに大阪方に属し、田辺城の細川幽斎を攻めた.衛友と幽斉は歌道を通じての師弟関係にあり、ひそかにつうじていたともいわれる.この時の戦いには、「谷氏の空鉄色」というおもしろい逸話が伝えられていろ.
 徳川幕府は、巧妙峻厳な大名統制と民衆支配ならぴに鎖国政策などによって、264年にわたり徳川幕藩体制を維持してきた.谷氏は関ケ原の役後も引続きその所領を安堵されたが、幕府は、丹波には谷氏の他、亀山・園部・綾部・福知山・篠山・柏原の六つの藩を配置した.亀山・福知山・篠山は譜代大名であったが、丹波の七藩はいづれも小大名で、丹波の土着的な近世封建大名は一人もでなかった.さらに幕府は、77家におよぶ大名領、天領、旗本領、皇室領、寺社領などを複雑にいりくませ、典型的な分割統治を行った.
 この上うな幕府の丹波分割統治の背後には、明智光秀の丹波攻略に対し、数年にわたって八上城の波多野秀治を中心に頑強に抵抗した丹波人の強力な結束力を恐れ、その分断をはかる政治的な意図がはたらいていたと思われる.この杓三百年にわたる幕府の丹波分割統治が丹波の地理的条件もさることながら、後の丹波の後進牲を運命づける一つの大きな要因となったといっても過言ではあるまい.
 延暦一三年(794)、京都に都が遷都されてから以後、丹波は王城付庸の役割をはたしてきた.そして古来、丹波には、「大江山伝説」に象徴されるように、暗い野蛮な後進的なイメージが今日まで残っている.だが本来、「タニハ」は、田庭、丹波、旦波、但波という字が使われろように明るい活気にみらた国であったのではなかろうか.今日の丹波のイメージは、古代からの中央権力者が政治的につくりあけた虚像にすぎないので辻なかろうか.
 このような丹波の風土の中で、谷氏は衛友以来、山家藩主として一度の国替えもみず、十四代の衛滋の代に明治四年(1871)の廃藩置県をむかえた.
 山家の館址の売却問題から、市民の間に保存の声が高まり、大本に譲渡され、公園として保存されることになった。1月には百本の梅の木が植樹され、梅林づくりがすすめられている.この館址は東の公園として、綾部市民はもとより、国道27号線をゆきかう人々の心をなごめ、やすらぎを与えてくれるであろう.
山家資料館  文化財を守る会会報 第34号 平成4年 民俗資料館視察同行記より
 もう春かと思える陽気になり、山家城跡公園の色づいた梅林の下をゆっくりと散策する.例年より随分早い梅花が楽しめそうである.域郭の形の立派な資料館が建設中で完成が待たれる。通りがかりの婦人から「私の家のものも寄贈してある」と聞く、地域に根さした資料館だとわかる.林貞美館長から仮倉庫を開けてもらい資料を拝見する.年々捨てられていく、多くの民俗・民具資料をこれから集めるのは大変だと思う.
 (文章)綾部郷土資料館建設促進協義会 事務局 鍋 師  有