綾部の文化財を守る会が立てた 駒札の内容 一覧表 および 社・寺・史跡・地域別の指定文化財
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| 駒札の設置された神社・寺院・史跡名(一部撤去すみで、市教委の案内板設置もあります) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 駒札設置以外の綾部の指定文化財 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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下記の駒札の内容について、諸先輩の中枢を占めた会員の方々のご逝去のため、原稿の所在が不明であり、@会報に記載されたものを再録。A鍋師が里山散策で写真に撮り、文字でも記録したもの。B仲林氏が写真で記録され、写真から読み取り再録したもの。がある。
特に、Bの場合、「駒札」文面を撮られたものでなく、全体写真の一部であり、影や反射、草花など、駒札の老朽化もあり、読みとれない部分も多く、また判読の状況で読み取りも定かでない部分がある。近く会員諸氏が手分けして不明な部分の現地再確認をお願いしている状況である。再録の状況分類を末尾に@ABで記す。
また、指定文化財の一覧表とその所在、時代考証について、文化財を守る会の機関誌だけでなく、綾部市資料館の三好先生からも多々のご指導を頂いている事を記し、心から厚く感謝の意を申し上げる。
紫玉山 金剛寺
本尊地蔵菩薩
臨済宗南禅寺派に属し開山は春屋妙葩(しゅんおくみょうは)(普明国師)(ふみょうこくし)である。
足利義満は妙葩生前の願を入れ明徳三年(1392)尊氏の香華道場ととして以前この地にあった紫玉庵を合せ本寺を建立した。妙葩は当時の名僧天竜寺の夢窓疎石に学び義満の帰依を得、故あって丹後の雲門寺に住したが京都への途次しばしばこの地の紫玉庵に滞在した。室町時代寺領二百石を有したが、天正七年(1576)明智光秀のため焼かれたという。
本寺に伝えられる開山普明国師像は室町中期の作として優れている。
| 指定文化財 | 綾部市指定 | 木造普明国師坐像 | 1躯 | 彫刻 | 室町時代 |
綾部市観光協会 綾部の文化財を守る会 B
真言宗醍醐派に賊する古刹で君王山 光明寺と称する。
寺伝によると推古天皇七年(599)聖徳太子によって建立され、後に役小角が、この地で修業し、延喜年中に至って聖宝理源大師が真言の道場として再興、坊舎七二坊に及ぶ大寺院であったが、大永七年(1527)の兵火によって、二王門を除く全山で焼失した。天文二年(1533)上羽丹波守が大施主となって再建したが、天正年間の戦乱で再び焼失した。
本堂は天保七年(1836)に再建され、本尊は千手観音菩薩をまつる。
国宝 二王門は、宝治二年(1248)竣工したことが、柱上の墨書銘によって判明、鎌倉時代における類例の少ない和様系二重門の遺構である。
市指定文化財の宝篋印塔は、無銘ではあるが細部にわたって丁寧に仕上げられた南北朝時代の優品である。
勧進帳は、天文二年再建時の勧進状と奉加帳で、数少ない中世の生活資料として貴重である。
| 指定文化財 | 国宝 | 光明寺二王門 | 1棟 | 建造物 | 鎌倉時代 |
| 京都府指定 | 光明寺本堂 | 1棟 | 建造物 | 江戸時代 | |
| 京都府登録 | 光明寺制札 | 2枚 | 古文書 | 室町時代 | |
| 京都府指定 | 鰐口 | 1口 | 工芸品 | 室町時代 | |
| 綾部市指定 | 宝篋印塔 | 1基 | 建造物 | 南北朝時代 | |
| 綾部市指定 | 紙本墨書勧進帳奉加帳 | 1通・1冊 | 古文書 | 室町時代 |
昭和61年11月 綾部の文化財を守る会 A
| 指定文化財 | 綾部市指定 | 木造阿弥陀如来坐像 | 1躯 | 彫刻 | 平安時代 |
| 綾部市指定 | 木造観音菩薩立像 | 1躯 | |||
| 綾部市指定 | 木造勢至菩薩立像 | 1躯 | |||
| 綾部市指定 | 木造二天像 | 2躯 |
武吉町西に在り臨済宗南禅寺派一等池で本尊に釈迦・文殊・普賢三尊仏をまつる。梅林山と号し慶長6年(1601)能登嶽峰恵林禅師の開創と伝え、はじめ五詮庵と称した。嘉永7年(1858)火災にあい慶応元年(1864)再建、明治17年玉泉寺と改称。明治33年(1900)寺門・梵鐘堂を建立する。
寺宝に大般若経六百巻・涅槃像・十六善神・白衣観音図がある。観音図は室町時代の画家霊彩の筆になる。紙本淡彩墨絵で重要美術品であり、50年(1976)綾部市文化財の指定を受けた。京都国立博物館に寄託中である。
尚、元、深山山中にあった真言宗の薬師寺にまつられていた大日如来座像が、天正年間の取りこわしや、明治6年(1873)の廃仏毀釈等の難にあいながらも、村人による護持と玉泉寺の理解を得て、昭和60年(1986)境内に建立された大日堂にまつられ、その後、痛みの激しかった仏像の修理も完了し、寄木づくり、彫眼で平安末期の様相をもつ鎌倉時代の地方仏師の見事な作として、昭和63年(1989)綾部市の指定を受けた。 平成11年12月 玉泉寺
| 指定文化財 | 綾部市指定 | 紙本淡彩墨画白衣観音図 | 絵画 | 1幅 | 室町時代 |
| 綾部市指定 | 木造大日如来坐像 | 彫刻 | 1躯 | 鎌倉時代 |
当社は、旧の郷社であったが、現在は、八津合十一町区の総氏神である。
八幡宮の主祭神は応神天皇で、社伝によると、建武二年(1335)に元八幡の地よりここに遷座して再建、本殿は、文化十二年(1815)領主藤懸永恵の命によって再造営された。大形の一間社流造の建物で、前面に唐破風造の拝所を付設しているのが特長である。
棟札によると、大工は播州来住村の兵右衛門で、拝所や本殿に飾られている象、獅子、雲、鶴などの動植物の彫刻は、丹波・丹後に多くの建築彫刻を残している、氷上郡柏原の彫刻師、中井政忠によるものであることが本殿脇障子の刻銘によっても明らかで、この本殿は、文化の頃特有のおおらかな装飾感覚をもつ建物本体に、上述の優秀な彫刻群が調和して優れた建物となっている。
また八幡宮一ノ鳥居は、旧若狭街道に面して建てられた大型の木造両部鳥居で、親柱を礎石の上にたて、前後の控柱で支える形式の鳥居で文久二年(1862)の建立である。
笠木の勾配の取り方や全体の美しさ、重厚さは抜群である。
一方、八幡宮の境内地は街道から直線軸に主要社殿を配し、周囲の老杉や植林樹が一体となって「鎮守の森」の形態をとどめており、こうした境内地の景観を保全するため、文化財環境保全地区に決定された。
| 指定文化財 | 京都府指定 | 八幡宮本殿 | 建造物 | 1棟 | 江戸時代 |
| 京都府登録 | 八幡宮一ノ鳥居 | 建造物 | 1基 | 江戸時代 | |
| 京都府決定 | 八幡宮文化財保全地区 |
平成5年11月 綾部の文化財を守る会 @
中照山日円寺
本尊 聖観音菩薩
真言宗高野山派に属している。寺伝によれば、聖武天皇の天平19年(747)行基菩薩の開創という。
頭巾山、君尾山、蓮ケ峰、弥仙山等修験道の一連の行場として開かれたものであろう。
延喜22年(922)空也上人再建。七堂、一門、十九坊を有したという。丹波国及び何鹿郡三十三ケ所の札所となっている古刹である。
天平年間、仁王門、三重塔等すべて兵火にみまわれ、寺の段、仁王門、湯屋等の地名に名残をとどめている。塔跡には五重の石塔がある。 綾部市観光協会 綾部の文化財を守る会 A
| 指定文化財 |
景徳山 安国寺 臨済宗東福寺派
安国寺は、正歴四年(993)ごろ地蔵菩薩を本尊として開創されたと伝えられ、もとは光福寺と称した。建武四年(1252)勧修寺重房が上杉荘を賜り、これより「上杉」を姓とすることとなった。その後、光福寺は上杉氏菩提寺となり、釈迦三尊を合わせ祀った。
嘉元三年(1305)足利尊氏の生誕によって当寺は、上杉氏・足利氏の尊崇を受けるようになった。暦応元年(1338)足利尊氏は夢想疎石の勧めによって、元弘の戦乱以降に亡くなった多くの戦没者の霊を慰めるため、国ごとに安国寺利生塔を建立するにあたり、光福寺を丹波の安国寺となし、諸国安国寺の筆頭において、安国光福寺としたものである。
康永元年(1345)尊氏は、南禅寺に住した天庵妙受禅師を招請して、安国寺の始祖とし、多くの寺領を寄進した。
それ以降、塔頭十六、支院二十八を有する大寺院であったが、江戸中期に至るまでの間に大半の寺領は押領されて、塔頭、支院は減少したが、今なお多くの重要文化財、府市指定文化財、重宝等も蔵する名刹である。
| 指定文化財 | 重要文化財 | 木造釈迦如来及両脇侍坐像 | 3躯 | 彫刻 | 南北朝時代 |
| 重要文化財 | 木造地蔵菩薩半跏像 | 1躯 | 彫刻 | 鎌倉時代 | |
| 重要文化財 | 絹本墨書天庵和尚入寺山門疏 | 1巻 | 書跡 | 南北朝時代 | |
| 重要文化財 | 安国寺文書(74通) | 5巻3幅 | 古文書 | 鎌倉〜安土桃山 | |
| 京都府指定 | 安国寺仏殿・方丈・庫裏 | 各1棟 | 建造物 | 江戸時代 | |
| 京都府指定 | 絹本著色天庵妙受像 | 3幅 | 絵画 | 南北朝時代 | |
| 京都府登録 | 安国寺山門・鐘楼 | 各1棟 | 建造物 | 江戸時代 | |
| 綾部市指定 | 宝篋印塔 | 3基 | 建造物 | 南北朝時代 |
平成12年10月 綾部の文化財を守る会 A
医王寺 八田 梅迫町 建立年度:45
安養山 医王寺
本尊 阿弥陀如来
本寺は寛政年間(1460−65)安国寺九世 妙澤和尚の創建と伝えられているが、現在一堂宇を残すのみである。元寺名の如く薬師如来が本尊であったが盗難のため他から移された阿弥陀如来像が今本尊となっている。
阿弥陀如来像は重要文化財で胎内には元享三年(1323)三月、日法印尭円(ぎょうえん)の銘を有し、京三條仏所大仏師 尭円の作である。鎌倉後期の華麗な盛上(もりあげ)彩色の文様をあらわし寄木造りで宋風の力強い作品である。
| 指定文化財 | 重要文化財 | 木造阿弥陀如来坐像 | 彫刻 | 1躯 | 鎌倉時代 |
綾部市観光協会 綾部の文化財を守る会 内谷自治会 B
神宮山 岩王寺(しやくおうじ) 高野山真言宗
平安時代の初期、この山より産出する硯石を嵯峨天皇は「石の王子」とたたえられ、その百年後の天歴三年(949)空也上人この山に一寺を建てて岩王寺と名づけられた。
元弘三年(1333)足利尊氏 篠村に兵を挙げるや岩王寺一山のの僧徒は足利氏のために戦勝祈願をし、その功により田地二町歩の寄進を受けた。
そのころ寺領七百石を有し、寺僧百人を数え、この山一帯には堂塔、伽藍林立して隆盛をきわめた。
その後秀吉 天下を平定するや寺領落失して今日に至っている。
岩王寺石の名声は今に伝えられているが、明治維新ごろの山崩れによって今は産出しなく「幻の名硯」と言われている。
| 指定文化財 | 重要文化財 | 鬆漆卓 | 工芸品 | 1脚 | 室町時代 |
| 京都府登録文化財 | 岩王寺本堂 | 建造物 | 1棟 | 江戸時代 | |
| 岩王寺仁王門 | 建造物 | 1棟 | 江戸時代 | ||
| 綾部市指定文化財 | 足利尊氏寄進状 | 古文書 | 1巻1通 | 室町時代 | |
| 綾部市指定文化財 | 足利尊氏寄進田数目録 | 古文書 | 1通 | 室町時代 |
昭和57年1月 綾部の文化財を守る会 B
嶋万神社の太刀振・太鼓踊
社伝に天平八年疱瘡(ほうそう)が流行し、翌年(737)疫病平癒祈願のために
本社を勧請(かんじょう)したとしている。現在も安産病気平癒の神として崇敬されている。祭礼は十月十日に行われ、氏子中から太刀振と太鼓踊が奉納される。
これらは中世末期に流行した風流踊を伝えるものであって、昭和六十年京都府の無形民族文化財に登録されている。
平成6年3月 綾部市教育委員会
| 指定文化財 | 京都府登録文化財 | 島万神社の太刀振・太鼓踊 (テンテコテン) |
無形民俗文化財 | 中世末〜近世初 | |
| 綾部市指定文化財 |
集宝山 施福寺 由緒 綾部西国二十八番札所
宗派 高野山真言宗
本尊 千手千眼観世音菩薩
開山 奈良時代(750)行基大士(約1200年前)この地に来遊され、地勢絶勝にて頗る清雅であるところから、庵室を構えて漸次この地を開拓し、ここに伽藍を造営し山名を集宝、寺号を施福とされた。
その後方々より学徒多く集まり来るようになり、八葉ケ峯(蜂ケ峰)の中腹に、東照寺、西照寺その他十二ケ寺が建立されたが、年月を経て荒廃した。
よって東照寺は、井根の日円寺へ、西照寺は施福寺へと言い伝えられる。
再建 平安時代(950)空也上人、熊野三所権現を勧請し再建される。
戦国時代(1526)兵火にかかり尽く焼失する。
その後、江戸時代(1686)四間半四面の本堂建立。
江戸時代(1736)大洪水にて壊滅したが、時の代官、小堀仁右エ門に本堂再建を願い出て、翌年山門・本堂再建される。しかしその後再度の大洪水により山岳崩れ、本堂は壊滅する。
江戸時代(1809)七間四面の本堂再建され、現在に至る。(約180年前)
明治三十一年(1898)壇家浄財を寄進し、夫役に当たり庫裡建立される。
昭和四十三年(1968)トタン覆屋根に改修。
市指定文化財 木造地蔵菩薩半跏像
御詠歌 世の人も来て願うべし 観音の 御手に宝を集めたる山 平成2年1月
| 指定文化財 | 綾部市指定 | 木造地蔵菩薩半跏像 | 彫刻 | 1躯 | 鎌倉時代 |
上記は地元建立の案内板である A 綾部の文化財建立の駒札は、老朽のため取り外されたと思われる。
梅迫薬師堂
場所 小字薬師平十八番地
祭神 薬師如来
祭日 9月21日
由緒 村を守り住人の安泰を祈る為に、村の中央から東方に、薬師如来と阿弥陀如来を祀るものである。本尊を東方薬師如来とよんでいる。
口伝えによると、お堂の周りは大木が繁る森であった。薬師如来は七体薬師と称し、一本の巨木を以て七体の薬師を造って奉安したとの伝説がある。古の薬師如来はよく盗難の被害を受けたといわれている。
昔、梅迫の住人、吉田興惚右衛門は後に入道して、善照と号したがこの人が、難病を煩い命乞いをして、願が成就し、貞享3年(1686)ここに御堂を建立した。その後外側を村で造営したという。
その当時の厨子正面の額は、高雄常性と高雄忠昌の両人がこれを寄進したという。其の時の領主谷帯刀衛周公より、十二神の薬師を寄進せられ又薬師堂料として元禄元年(1688)古墳を伐り開いて畠として寄進せられた。此の時の政所は、譜代の臣松田氏磯部団右エ門周徳、裁可したその後享保も年に至るまでに又々十神を失って、同じく十年頃には二神だけが残ったと伝えられている。これから見ると薬師堂は余程壮大であったと想像出来る。
その後明治の初年に至るまで堂宇はあったが、相当腐朽していたが修理をしなかったので、遂に堂を取り壊し取り除いて堂跡は畠として譲渡し、薬師如来の仏像は、一時雲源寺に預かることになった。
薬師如来像は雲源寺の観音堂に安置していた。像の胎内に左の銘があった。
仏工京都水谷方昭 奉再興 薬師瑠璃光如来 当寛延元戊辰九月 梅雲山雲源寺 白淋臼叟梵圭 とあり、寛延元年(1748)この頃薬師如来は新調せられた様である。
薬師如来像を雲源寺の観音堂に康安されてから、畠を譲り受けた家に思わしくないことが起こったので、心配して祈祷を受けた処、薬師如来が元の座にもどりたい意向の様だと聞いて、大正の初頃梅迫地区へ戻して再興し、現在に至っている。 薬師如来本尊
| 指定文化財 |
岩王寺地蔵尊
足利尊氏の母公(上杉清子)この地蔵尊を信仰されてより、子安地蔵尊として参拝するものあとをたたず、今にいたってもますます信者がふえています。
| 指定文化財 |
上記は地元建立の案内板である A 綾部の文化財建立の駒札は、老朽のため取り外されたと思われる。
当社は清和天皇、六孫王経基、多田満仲を祭神としている。
石田神社本殿は、三間社流造正面に軒唐破風、千鳥破風をつける柿葺(こけら)の建物である。
身舎の組物は非常に立体的で、中備、手狭、正面の扉などの装飾にも手がこんでいる。
建立は正徳三年(1713)で、大工は梅迫村四方好兵衛政重、小兵衛、源兵衛父子で、十八世紀前半の神社建築の中では特に保存がよい。
境内社恵比須神社は西宮大神宮とも称し、桁行三間、梁行二間切妻造の建物である。
建物の由緒は詳でないが、木割りが太く、蟇股の形状などからみて、当社の棟札にある延慶四年(1311)造立の建物、即ち鎌倉時代に建立された旧本殿であろうと考えられている。
後世において改造されてはいるが、京都府北部に残る最古の神社遺構であり、妻飾の虹梁大瓶束に禅宗様をとり入れており、全国的にみても、こうした様式が神社建築に取り入れられた早い例で、建築史上の価値は非常に高い。
| 指定文化財 | 重要文化財 | 石田神社境内社 恵比須神社本殿 | 建造物 | 1棟 | 鎌倉時代 |
| 府指定文化財 | 石田神社本殿 | 建造物 | 1棟 | 江戸時代 | |
| 京都府決定 | 石田神社文化財環境保全地区 | 環境保全地区 |
昭和63年12月 綾部の文化財を守る会 @
当社は、社伝によると和銅三年に九州宇佐八幡宮より分霊を勧請し、於与岐の入口、一ノ瀬に鎮座、もとは味方村以北七ケ村の総社であったが、天文十九年(1550)の大洪水で社殿等悉く流出、また嘉吉年中にも火災で焼失、正徳五年(1715)に現在地に再建され、以後、於与岐村の氏神になったと。
本殿は、京都府下では例のない六間社流造の建物で、平面で見ると中央に柱がたつので、三間社を二つ並べた形とも見られる。
身舎・向拝の蟇股は足元が大きくふくらみ、松、菊、牡丹などの彫刻を入れ、向拝部にも唐獅子牡丹の欄間彫刻をはめ込んでいる。
大工棟梁は、若狭大飯郡日置村一ノ瀬作太夫で、彫物師は桑田郡余野村一ノ瀬弧一之助である。
当社に伝わる祭礼芸能は、氏子の株組織と密着して宮座の形式をとって伝承されてきたもので、獅子舞、鼻高および田楽から構成される。獅子舞は二人立ちで伎楽系のもの、鼻高は天狗の面を着け、鈴の着いた木鉾を持って舞う王舞、田楽はビンササラ1、太鼓3の編成で、御輿の御旅を囃しながら先導する。
いずれも風化が著しいが、王舞・獅子舞・田楽をセットとするこの祭礼芸能は、鎌倉時代に京都を中心に盛行したその形を伝えていて貴重であり、無形民俗文化財に指定されている。
| 指定文化財 | 京都府登録文化財 | 於与岐八幡宮本殿 | 建造物 | 1棟 | 江戸時代 |
| 京都府登録文化財 | 於与岐八幡宮の祭礼芸能 | 無形民俗文化財 | 鎌倉時代 | ||
| 京都府決定 | 八幡宮文化財環境保全地区 | 環境保全地区 |
平成5年11月 綾部の文化財を守る会 @
| 指定文化財 |
照福寺は文安二年(1445)山家城主和久氏の菩提寺として創建されたと伝え、臨済宗妙心寺派に属している。
はじめに広瀬町の甲が峯にあったが、天正の頃和久氏の没落により東山町に移転、寛文二年(1662)領主谷衛広公から現在地に寄進造営された。本尊は、釈迦牟尼仏を祀る。(国指定 名勝 照福寺庭園)
本堂及び書院の北側にある庭園は「含勝庭」と呼ばれ、天保十四年(1843)当寺十二世仙 和尚の作庭になるもので、作庭年代が明かであり、形態も完全に当初の姿を保つ貴重な庭園で、昭和45年9月、国の「名勝」として指定された。
庭園は築山林泉式の枯山水庭で、地元の山石を多く用い、ややきびしい手法で作庭されていて、江戸時代末期頃の特色をよく表している。
北西隅の築山に枯滝口を表わし、東に向かい徐々に低い築山となる。
書院に面して今一つの滝口があり、石橋が渓流を渡る。鶴島に対する亀島は、二つの築山のすそを長く岬のように手前に突出して島のように見せている。
築山のすそをめぐって流れを表わし、本堂と書院は飛石で連絡され、さらに石橋をわたり築山に回遊できるようになっている。
| 指定文化財 | 重要文化財 | 照福寺庭園 | 名勝 | 江戸時代 |
平成元年11月 綾部の文化財を守る会 @
臨済宗妙心寺派で阿日山仏南寺という。寺伝によれば、往時真言宗に属し、七堂伽藍の浄刹であったが、室町末期に荒廃し、万治年間に再興され、後に火災に遭い、元禄年間に再築されたという。
六国史の「三代実録」の貞観五年(863)六月三日の条に「以丹波国何鹿郡仏南寺為真言院 即付国司検校」と国によって真言院とされ、国司の監督をうけた宮寺と記されていて、丹波丹後では特色ある古寺である。
市指定文化財 虚空蔵菩薩立像は貞観時の洋式を示す10世紀ごろの作、大日如来坐像は金剛界大日の智挙印を結び平安末期の作で、ともに草創の由緒を推察される優れた仏像である。
| 指定文化財 | 綾部市指定 | 木造大日如来坐像 | 彫刻 | 1躯 | 平安時代 |
| 綾部市指定 | 木造虚空蔵菩薩立像 | 彫刻 | 1躯 | 平安時代 |
昭和60年8日 綾部の文化財を守る会 B
平成3年4月12日、市内多田町にある聖塚・菖蒲塚古墳が、国の文化財審議会から史跡として指定(答申)きれた.府内の史跡指定はこれで14件目である。
両古墳は綾部市街地から北東約2.5`、吉美盆地のはぼ中央に約百bはなれて位置する古墳時代中期の大型の方墳である。
明治24年、聖塚からは、鏡片・冑片・短甲片・鉄刀・玉類などの遺物が多量に出土している。
昭和57年、圃場整備事業に伴い、綾部市教育委員会により、周壕部の発掘調査が行われ、その規模が明らかとなった。
聖塚は、二段築成で、葺石・埴輪列があり、南辺に造り出しを設けた一辺54b余、高さ7bの大型方墳である。埴輪は円筒埴輪のほか朝顔方埴輪、蓋(きぬがさ)、短甲形埴輪などが出土している。
菖蒲塚は一辺約32bの方墳で、聖塚と同じく南辺に造り出しがあるが、その基部に更に台形の張出しを設けるという特異な形態をしており、高さは約5bである。葺石、埴輪列があり、円筒埴輪や朝顔形埴輪などが出土している。出土遺物から5世紀前半頃の築造と考えられ、築造当時の形態がよく残されている点は貴重である。
聖塚は方墳としては大型古墳に属しており、築造が段築・埴輪・葺石という中央政権と密接なつながりを有すると考えられる三セットからなり、更に両古墳の築造された位置、墳形、出土遺物に共通性が見られる点など、その歴史的意義は高く、古墳時代社会を考える上で貴重である。
丹波・丹後で既指定の史跡(古墳)は、千歳車塚古填(亀岡市)・蛭子山古墳・作山古墳(加悦町)・銚子山古墳第一第二古墳(網野町)・神明山古墳・産土山古墳(丹後町)である。
| 指定文化財 | 重要文化財 | 聖塚古墳 | 史跡 | 1基 | 古墳中期 |
| 指定文化財 | 重要文化財 | 菖蒲塚古墳 | 史跡 | 1基 | 古墳中期 |
東谷山 極楽寺 臨済宗東福寺派
開創年月は不詳であるが安国寺十五世朗室妙?和尚の開山である。二世桂岩令昌和尚は堂宇を再建し寺門の興隆をはかり当山を中興した。その後堂宇の改建があったが明治二十一年の火災により鳥有に帰し、再建立されたのが現在の寺院である。
| 指定文化財 | 綾部市指定 | 木造阿弥陀如来立像 | 彫刻 | 1躯 | 鎌倉時代 |
昭和58年3月 綾部の文化財を守る会 B
式内社 祭神大日霊貴尊(オオヒルメムチノミコト、天照大神)
伝承によると第五十一代平城天皇の大同二年(807年)須波伎山に創建されたといい、三代実録によると貞観十一年(869年)十二月八日の条に「授丹波国正六位上物部簀掃神従五位下」とあり、古代から階位を有した神社であったことがわかる。
恐らく古代に於てこの地に勢力をもった簀掃物部氏の氏神であったものと思われる。
元和九年(1623年)再建、元文四年(1739年)に改築。
尚、華表の扁額は山階宮晃親王の染筆にかかる。当社の神宮寺であったと思われる中谷山天慈院が境内に接して建立されていたが、現在は薬師堂だけが残って、等身大の本尊薬師如来坐像が安置されている。
本尊は室町時代中期を下らない仏像といわれている。
参道鳥居脇には樹齢数百年の欅がある。 綾部の文化財を守る会
| 指定文化財 |
志賀の七不思議と「茗荷さん」の縁起
その縁起
今からおよそ1400年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は国の中心勢力を固めるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征伐することになりました。すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親王はおおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによるものと、丹波の国々に七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。
また志賀の里の「藤波」「金宮」「若宮」「諏訪」「向田:後の篠田」の五つの社を厚く信仰されたということです。
親王の子孫、金里宰相は、この五社の大明神に千日参りをされ、これを記念して藤波大明神には「藤」金宮大明神には「茗荷」若宮大明神には「萩」諏訪大明神には「柿」向田大明神には「竹」をお手植えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に報告されました。
この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があらわれるようになったということです。
なお、この五社のほかに、向田の「しずく松」「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらをあわせ「志賀の七不思議」として今に語りつがれています。
その奇瑞 阿須須伎神社=金宮大明神の「茗荷さん」
毎年旧暦の正月三日になると、日の出より8時までの間に、清水の流れる「お宝田」から茗荷が3本出るのです。
これを神前に供え、その茗荷の出る場所、その育ち具合いから、その年の稲作の早稲(ワセ)中稲(ナカテ)晩稲(オクテ)の吉・凶を占い、またその年の作物の出来具合い、風水害、かんばつまでも占います。
この神事は、今も新暦の2月3日に「茗荷祭
祈願祭」として行われ、地元の人からは「ミョウガさん」として親しまれています。
参拝者には、この占いの写し(お宝付きの写し)と魔除けの矢、甘酒、お餅などがふるまわれます。
是非一度お詣りください。 志賀郷公民館
| 指定文化財 | 京都府登録文化財 | 阿須々岐神社本殿 | 建造物 | 1棟 | 江戸時代 |
| 京都府登録文化財 | 摂社大川神社本殿 | 建造物 | 1棟 | 江戸時代 | |
| 京都府登録文化財 | 祭礼芸能 | 無形民俗文化財 | 中世的な | ||
| 京都府決定 | 阿須々岐神社文化財環境保全地区 | 環境保全地区 |
上記は志賀郷公民館の建てられた案内板である A 綾部の文化財を守る会の駒札は再調査依頼中。
洞谷山 長松寺 曹洞宗
当寺の開創は古く不詳であるが、永禄十一年(1568)曹洞宗に改めた道華元達を開山としている。元禄三年(1690)の大火により焼失し、元文三年(1738)再建する。
寺伝によると当時本尊聖観音座像は、永禄年間に開山・道華元達が彫らせたもので、その胎内に納められている金銅造の聖観音立像は、白鳳時代の作である。
| 指定文化財 | 綾部市指定文化財 | 聖観音立像 | 工芸品 | 1躯 | 白鳳時代 |
昭和58年3月 綾部の文化財を守る会 A
塩岳山(えんがくさん)楞厳寺(りょうごんじ)高野山真言宗
天平年中(729−48)林聖上人の開創にかかる楞厳寺は、もと吉祥院と称していた。
幾多の時代変遷と再三の兵火により、寺坊はほとんど焼失している。殊に建武四年(1337)の乱により広大な寺領が奪われた記録が、貞和五年(1349)の敷地紛失状である。
また江戸時代初期の筆と考えられる楞厳寺縁起は、当寺の伽藍および宝物について記されている。
現在の本堂は、元禄十六年から宝永五年(1708)にかけて建立されており、庫裡は宝歴八年(1758)のもので、内部の*絵は、長井一*画伯筆の*絵で知られ、四季に分けて三十面に描かれている。
境内の菩提樹、百日紅、椿は三古木として知られる。
| 指定文化財 | 重要文化財 | 絹本著色不動明王像 | 絵画 | 1幅 | 鎌倉時代 |
| 綾部市指定 | 絹本著色釈迦十六善神画像 | 絵画 | 1幅 | 南北朝時代 | |
| 綾部市指定 | 敷地紛失状 | 古文書 | 1通 | 南北朝時代 | |
| 綾部市指定 | 大般若経と経櫃 | 書跡・工芸品 | 181巻1合 | 藤原〜桃山時代 | |
| 綾部市指定 | 楞厳寺縁起 | 古文書 | 1巻 | 室町時代 |
昭和37年7月 綾部の文化財を守る会 B
塩岳山 楞厳寺
本尊 薬師如来
本寺は真言宗高野山派に属し、聖武天皇 天平年中(729−48)林聖上人の開創といわれる。
建武四年(延元二年1337)兵火に見舞われ広大な寺領を奪われ、***
綾部市観光協会 綾部の文化財を守る会 B最初の駒札は、痛みがひどく写真では読みとれない状態です。
祭神 瓊々杵尊、猿田彦命、天宇須女命
何鹿郡式内社十二座の一社、丹国社、後に赤国社と記し、稲葉山の宮の段に奉祀されていたという。慶長五年の兵火により類焼、什宝記録を焼失した。
江戸時代の初期まで、旧暦八月の十日祭に梅若太夫の能楽が奉納されたという。宝物(文の鳥)は神輿に附する銅製の鳳凰で「正和三甲乃九八日下司源光高」の銘を有し、当社の由緒を物語る市指定文化財、境内発見の八稜鏡は藤原期の作である。
大正年間、当社近隣での石斧、鉄滓、土器の発見は、当地方考古学研究の先駆となった。
| 指定文化財 | 綾部市指定 | 文の鳥 | 工芸品 | 1体 | 鎌倉時代 |
昭和60年8月 綾部の文化財を守る会 B
広畔堂跡 豊里 栗町 建立年度:46
| 綾部藩の文教政策 九鬼氏は歴代学問を重んじ、特に九代隆都公は山鹿素水を招いて兵学をおさめ。幕臣大野広城を預かり、奥山弘平、佐藤信淵をまねいて治世と経済立て直しの大方針を確立し、蘭学者であり名医であった新宮涼庭を接見して、治国平天下の道を説かしめた。更に十代隆備は、山崎闇斎派の学者三上是庵を、また藩医として増山守正を招いた。これらの人々と藩士の近藤勝直等の教化が相まって幕末から明治にかけて綾部の教育文化の担い手となった近藤勝由、沢井広重、宮崎清風等を生んだ。 藩校および郷学校 綾部藩では四代隆寛の頃、藩校を進徳館と改め、藩士の教育に力を注いでいたが、慶応元年、十代隆備は藩の碩学近藤勝直を総督に任じ、大いに藩校を充実すると共に、領内栗村、高津、小畑等六ケ所に郷学校を建てて庶民教育に努力した。中でも栗村の広畔堂は、郷学校中随一のもので、近藤勝直の高弟沢井広重が専任教師として指導にあたった。門人には羽室嘉左衛門、芦田鹿之助、波多野鶴吉他地方のために活躍した人を多数輩出し、明治における綾部発展の基礎となったことは郷土の教育史上特筆すべきである。 封建制度下百姓町民も自由に入りうる学校が藩の力で作られたことは日本の歴史のうちでも稀なことで、綾部はおろか遠く亀岡あたりからも入学を希望して多くの人が集まった。 こうしてこれらの郷学校は明治五年学制発布によってその伝統を受け継いでいく各地小学校として発展して行った。 丹の国綾部 第四話 九鬼氏と綾部の人々より引用 (綾部青年会議所編) |
| 指定文化財 | 綾部市指定 | 木造薬師如来坐像 | 彫刻 | 1躯 | 平安時代 |
八幡宮は、綾部郷の惣社、井倉八幡宮という。
当社縁起書には、石清水八幡宮の別宮で治承年中(1117−81)平重盛が勧請したと綾部藩々記にのべている。
2月4日奉射講の弓初、4月3日御田植のまねびの行事があったが、戦時中中断した。
平成6年、寛政8年(1796)の古記録をもとに、お田植を復活し毎年実施している。
御田植祭は、綾部郷内七社の関係者が寄合い、翁の面をつけた八幡宮の神職が、暦見、田おこし、水当、田すき、種まき、鳥追い、苗取、田植を進め、苗取、田植は笛、太鼓、鉦の拍子と音頭にあわせて全奉仕者が行い、最後に傘鉾のねり込みで終了する。
綾部郷の稲作が、縁起の進行の通り、豊穣である事を神を祭って願う民間行事である。
半左衛門と兵衛の掛け合い問答と、半左衛門の所作の演技は、古式をよく伝え、一郷の年中行事の始めとして後世に長く継承されるものである。
平成11年1月 綾部の文化財を守る会 A
| 指定文化財 |
正暦寺は天慶五年(942)空也上人によって開創されたと伝えられ、後に正暦の年号を寺号に授与された真言宗の古刹である。また秘仏、聖観音像がご本尊で、古くから広く尊崇を集めてきた。
当庭園は、第十五世湛信上人が、藩主の後援を得て天保年間に完成させた。庫裡の西側に位置し、江戸時代中期に作庭された枯山水の名園である。約159平米の広さをもつ庭園内は、小高い築山のほぼ中央部に雌雄二つの枯れ滝を組んで全庭の重心とし、鶴島や出島、岩島さらに三尊石組、洞窟石組などを配石する優れた構成になっている。こうした構成の巧みさや、チャート、硬砂岩等地元産の大振りの石を用いた石組の力強さと巧みさ、更に石一つひとつの据え方に高い技術が伺われる。また背後の藤山を借景に取り込んだその姿は、府北部最優美の庭園との評価に違わぬ美しい景観を呈している。
正暦寺の有する仏涅槃図(明治37年2月国指定)千手観音立像(昭和45年3月市指定)と共に、当庭庭園は、親しく鑑賞するに値する貴重な文化遺産である。 平成6年7月 那智山 正暦寺
本寺は 山 正 年(991 れる 九鬼 がさ 熊野 境内 安 木 仏 千 の 文化 十六善神 不 綾部市民 でなけれ われ 文化の保存 ならない 文 守る B駒札の痛みがひどく、文字が薄れ、殆ど読みとれない。
| 指定文化財 | 重要文化財 | 絹本著色仏涅槃図 | 絵画 | 1幅 | 鎌倉時代 |
| 京都府指定文化財 | 正暦寺庭園 | 名勝 | 江戸時代 | ||
| 綾部市指定 | 木造千手観音立像 | 彫刻 | 1躯 | 鎌倉時代 |
東光院
東光院は、高野山真言宗に所属する古刹で、菅谷山法隆寺東光院と号し、本尊は薬師如来をまつる。
寺伝によると天武天皇の白鳳二年(673)理趣仙人によって開創され、七堂伽藍を備えた寺院であった。寛弘二年(1005)聖楽上人が中興し、坊舎二十一坊を備えて隆昌したが、応仁の乱につづく延徳の兵乱(位田の乱)の兵火で焼失し、更に明暦年間にも火災にあって炎上した。
当寺に残されている大般若経は、平安時代から室町時代に書写された、大般若経の残巻で約三十巻あり、最古のものは、仁平二年(1152)奥書があり、又他にも志万庄法隆寺(巻第五〇)奥書のあるものもあって、当時は法隆寺と呼んでいたことがわかる。
この写経は、丹波における平安時代の写経事業を伝える数少ない遺巻であり貴重である。
又、経櫃懸子は、杉板製漆塗で、長方形、底は浅板張りで、内面と底面に漆書、墨書があって延徳二年(1490)頃の位田の乱に岡町木曾殿神社の焼失の事が記録されている。
| 指定文化財 | 綾部市指定文化財 | 大般若写経 | 書跡 | 30巻 | 平安〜室町時代 |
| 綾部市指定文化財 | 経櫃懸子 | 工芸品 | 1組 | 室町時代 |
昭和63年12月 綾部の文化財を守る会 A
高津八幡宮
当八幡宮は、石清水八幡宮の別宮で、如意別宮といい、高津莊の総社である。
当社の縁起によれば、もとは法道仙人の開いた密教練行道場であったが、元慶五年(881)山城国男山から金鳩が飛来したのを奇瑞として、八幡宮が勧請されたと伝える。明応九年(1500)災禍に遭い、社殿を焼失したが、翌文亀元年に再建された。別当寺は御所坊、極楽寺などと称え、後に究意院と改め、、醍醐三宝院派に属した。
近世初頃、福知山藩主有馬豊氏、綾部藩主九鬼隆季など歴代領主の尊崇を得て、社領の寄進をうけている。
現在の社殿は、九鬼隆都の企てにより、天保十年(1839)起工、嘉永五年(1852)に完成した。
宮大工は、地元延村の桑原兵右衛門で、向背の竜彫物は、大坂の彫物師の手になる。
府下でも有数の代表的社寺建築である。
なお参道の長い石段に、天明四年(1784)から文化十二年まで、二十余年にわたり、村民の寄進により築造されたものである。
| 指定文化財 | 綾部市指定 | 高津八幡宮本殿 附幣殿 拝殿 | 建造物 | 1棟 | 江戸時代 |
| 綾部市指定 | 紙本墨書 高津御山八幡宮勧進状 | 書跡 | 1巻 | 室町時代 | |
| 綾部市指定 | 紙本著色八幡縁起絵 | 絵画 | 1巻 | 室町時代 | |
| 綾部市指定 | 木造獅子・狛犬 | 彫刻 | 1対 | 南北朝時代 | |
| 綾部市指定 | 紙本淡彩墨絵大槻辰高像 | 絵画 | 1幅 | 鎌倉時代 |
綾部の文化財を守る会 A
駒札建立外の綾部市の指定文化財
旧岡花家住宅 (木の花庵)大本 本宮町
| 指定文化財 | 重要文化財 | 旧岡花家住宅 (木の花庵) | 建造物 | 1棟 | 江戸時代 |
綾部市 中央公民館
| 指定文化財 | 重要文化財 | 丹波焼コレクション | 有形民俗文化財 | 150点 | 室町〜江戸時代 |
私市円山古墳 私市町 出土品は綾部資料館:久田山
誰も知らなかった古墳
私市円山古墳は、舞鶴自動車道建設に伴い、事前に実施された発掘調査によって、昭和63年新たに発見された古墳です。
由良川中流の王:埋葬施設は2基あり、古墳時代の中頃(1500年前)由良川の中流域を治めていた王であると考えられている。
埋葬された王は、名前も、二人が兄弟なのか親子なのかもわかっていませんが、眼下に広く由良川を眺めるこの丘の上を選んで古墳を築いていること、その規模や内容からも、彼らが由良川中流域を治めていた王であることはまちがいありません。
古墳の形は円形で、直径が約70mあり、埋葬に伴うお祭りが行われた、方形の造り出しを含めると、全長80mに達し、京都府下最大の円墳です。
鏡・胡ろくなどの副葬品:埋葬施設:頂上には王が葬られていて、木製の棺は腐ってなくなっていますが、一緒に納められていた、よろい・かぶと・刀などの武器のほか、鏡・玉類など、たくさんの品々が見つかっています。
王の埋葬は二人分あり、外側の埋葬施設からは、当時としても大変貴重な、金ぱくを張った胡ろく(ベルト付き矢袋)が出土しており、葬られた王の力や、他の王との交渉が想像されます。
高さ10mの斜面は3段に造られ、葺石と呼ばれる川原石を約6万個敷きつめています。さらに三重に千本余りの埴輪(円筒埴輪、朝顔型埴輪)で囲っていました。
| 指定文化財 | 重要文化財 | 私市円山古墳 | 史跡 | 1基 | 古墳時代中期 |
| 京都府指定文化財 | 私市円山古墳出土品 | 考古資料 | 一括 |
志賀の七不思議と「竹の子さん」の縁起
その縁起
今からおよそ1400年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は国の中心勢力を固めるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征伐することになりました。すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親王はおおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによるものと、丹波の国々に七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。
また志賀の里の「藤波」「金宮」「若宮」「諏訪」「向田:後の篠田」の五つの社を厚く信仰されたということです。
親王の子孫、金里宰相は、この五社の大明神に千日参りをされ、これを記念して藤波大明神には「藤」金宮大明神には「茗荷」若宮大明神には「萩」諏訪大明神には「柿」向田大明神には「竹」をお手植えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に報告されました。
この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があらわれるようになったということです。
なお、この五社のほかに、向田の「しずく松」「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらをあわせ「志賀の七不思議」として今に語りつがれています。
その奇瑞 篠田神社=向田大明神の「竹の子さん」
毎年旧暦の正月四日になると、日の出より八時までの間に、神殿裏の「御ミノシベ」と呼ばれる竹林から、竹の子が三本出るのです。
これを神前に供え、その竹の子の出る場所、その育ち具合いから、その年の稲作の早稲(ワセ)中稲(ナカテ)晩稲(オクテ)の吉・凶を占うのです。
この神事は、今も新暦の2月4日に「筍祭
祈願祭」として行われ、地元の人からは「タケノコさん」として親しまれています。
つい最近まで、氏子の人、数人が三日間、籠堂に泊まり。日に三度づつ氷のように冷たい篠田川の水を浴び、行をとってきましたが、今は取り止めになっています。是非一度、節分の日に、お詣りください。 志賀郷公民館
| 指定文化財 | 京都府指定文化財 | 篠田神社本殿 | 建造物 | 1棟 | 室町時代 |
| 指定文化財 | 京都府指定文化財 | 黒谷和紙 | 無形文化財 |
| 指定文化財 | 京都府指定文化財 | 鰐口 | 工芸品 | 1口 | 南北朝時代 |
| 指定文化財 | 京都府指定文化財 | 君尾山のトチノキ | 天然記念物 | 弥生中頃 |
◎木造随身坐像二躯 (五津合町 室尾谷神社)
時 代 室町時代
像高阿形 38.7センチ
吽形 38.4センチ
主神を守護する随身像二躯で、各々巾子冠を戴き袍を着けて安坐する姿である。一方はロをやや開き他方は口を閉じる阿吽の形に造りわける。
各像の像底及び吽形の首柄底面には別記のごとく墨書銘があり、応永三十二年(1425)に製作されたことが判明し、同時に願主、檀那、仏師、彩色絵師など造立事情を知ることができる。専門の仏師の手になっただけあって、簡潔な作風のなかにも立体的にしっかりした造型で、当代神像彫刻の一基準作となしうる。
墨書銘
(阿形像像底墨書) 文中/は改行のくぎり
大願主道義敬白/大仏師法眼林皎圓宗/ 永卅天乙巳困林鐘/井絵師蔵人禅了賀口/檀那玉井殿敬白/代物弐貫伍百文御衣代口木/大吉日以開眼此有/布説代参百文
(吽形像像底墨書)
檀那玉井敬白/大仏師法眼林 圓宗 皆應永天乙巳林鐘/絵所蔵人禅了賀口/大願主道義敬白
(吽形像首 底面墨書)乙巳壬秋/大仏師法眼
| 指定文化財 | 京都府登録文化財 | 木造随神坐像 | 彫刻 | 2躯 | 室町時代 |
| 指定文化財 | 京都府登録文化財 | 八幡神社本殿 | 建造物 | 1棟 | 江戸時代 |
高倉神社由縁略記
治承年間、平清盛横暴を極め壇に朝権を寿し、畏くも後白河法皇を幽閉し奉りしを以て、孝心深き第二皇子高倉宮以仁王は、父君を幽閉より救い、更に皇室の隆盛を挽回せんと、源三位頼政に令旨を下し賜ふ。頼政奉じて勤王の兵をあげ、治承の難に至る。
逸道の激戦に官軍利あらず、頼政は宇治の平等院で自刃。宮は南都へ御落延の途中光明寺下で流れ矢に当たり、薨御と偽り、実は近臣大槻光頼、渡辺俊久等十二士と潜に頼政の領地丹波路に供奉し、宮をして一時の危難を避け奉りしが、宮は不幸当地に御着馬の頃から、御矢傷次第に重く、治承四年六月九日吉美郷里村で薨御し給ふ。
翌養和元年九月九日神霊を奥谷の森合の高倉に(現在地)奉遷し、高倉天一大明神と勧請せり、 尓来御神徳は四方に輝き、世直しの神、五穀豊穣、万病平癒、殊に胃腸病の快癒に御霊験高く、腹痛救護の神と世人の崇敬を聚め給ふ。
降って元文年間神殿挙げて回録に罹り、旧記神宝悉く鳥有に帰したが、御神像のみ火中より収めて神殿に奉安した。神殿の再建は延享三年に落成したが、建設以来星霜を閲し、再び廃頽に傾き、明治四十年再建を計画、同四十三年八月竣工、旧神殿は拝殿に改造し、新たに神殿竝びに透塀を造営、神域も拡張した。更に昭和五十三年奉紀八百年を記念し、宮の遺徳を追慕顕彰せん為、拝殿の前に神札授与所、大鳥居附近の参道石畳の新設、社務所の修復、新社務所の屋根の葺替、駐車場の新設等、広く氏子竝びに十二士後裔その他信仰者有志の多額の寄進を得て、昭和五十五年文字通り神社の面目一新、近郷稀に見る神社として整備された。 高倉神社社務所
| 指定文化財 | 京都府登録文化財 | 高倉神社拝殿 | 建造物 | 1棟 | 江戸時代 |
| 京都府決定 | 高倉神社文化財環境保全地区 | 環境保全地区 | |||
| 綾部市指定 | ヒヤソ踊 | 無形民俗文化財 | 中世に始まる |
式内社 可牟奈備神社
祭神 天下春神
この地を今も大宮というのは、かって崇敬あつい近郷近在の大社であった故であろう。
境内に数基の古墳がある。元亀天正の頃、兵火にかかり宝物記事等を焼失した。
後朱雀天皇の長元九年(1036)大嘗会主基方(だいじょうえすきかた)神道の歌に、丹波国神奈備山を
常磐(ときわ)なる神奈備山の榊葉
さしてぞ祈る 万代のため(千載集)
と詠まれているが、神奈備山は、この大宮の後背の山といわれている。
尚境内の阿上社には、永久二年(1114)銘の御神体の石碑がある。
現在綾部市最古の金石文である。
綾部市観光協会 綾部の文化財を守る会
| 指定文化財 | 綾部市指定 | 石碑 | 建造物 | 1基 | 平安時代 |
熊野十二所権現像
当熊野神社と隣接する別当寺の願成寺には、藤原(平安)時代の作といわれる熊野十二所権現の本地仏が分置されている。藤原時代に流行した浄土教の影響で、紀州の熊野神社に十二所の本地仏が定まり、永暦年間(1160〜61)京都に新熊野神社として勧請され、王城鎮護の神として祀られた。吾雀荘(あすずきしょう)志賀郷は、その荘園として寄進され、守護神として別所熊野神社に十二所権現像が祀られたのである。 綾部市観光協会 綾部の文化財を守る会
| 指定文化財 | 綾部市指定 | 木造熊野十二所権現木造菩薩形立像 | 彫刻 | 4躯 | 藤原時代 |
| 綾部市指定 | 木造熊野十二所権現木造僧形立像 | 彫刻 | 2躯 | 藤原時代 |
| 指定文化財 | 綾部市指定 | 木造熊野十二所権現木造蔵王権現像 | 彫刻 | 1躯 | 藤原時代 |
| 綾部市指定 | 木造熊野十二所権現木造十一面観音立像 | 彫刻 | 1躯 | 藤原時代 |
| 指定文化財 | 綾部市指定 | 織田信長朱印状 | 古文書 | 1通 | 安土桃山時代 |
個人蔵 広瀬町
| 指定文化財 | 綾部市指定 | 織田信長感状 | 古文書 | 1通 | 安土桃山時代 |
| 綾部市指定 | 豊臣秀吉感状 | 古文書 | 1通 | 安土桃山時代 |
| 指定文化財 | 綾部市指定 | 大般若経 | 書跡 | 596巻 | 鎌倉〜室町時代 |
| 指定文化財 | 綾部市指定 | 上林禅寺本堂の襖絵 | 絵画 | 34面(24本) | 江戸時代 |
坂尾呂神社
祭神 須佐之男尊
例祭 9月5日(現在は10月5日)
本殿は、寛政6年(1789)領主の許可を受け再建に着手。6年後、若狭日置村の彦兵衛の手によって落成。
古文書に「若狭日置村彦兵衛、此人宮宅普請功者大工故頼被申候、作両高 銀四貫五百匁 米二十石 相極候」と記されている。
| 指定文化財 | 綾部市指定 | 木造随身倚像 | 彫刻 | 2躯 | 室町時代 |