睦寄町下庄講中の仏像について      会長 村上高一       HP:綾部の文化財

 当会では昨年10月10日に「上林谷の文化財を訪ねて」という特別企画を実施しました。参加者は50名余りで、充実した内容であったと好評を頂きました。

 今回はその中で標題の内容について書いてみます。それは当日指導・案内して頂いた川端二三三郎先生の説明の中で、南北朝時代の禅宗の第一人者・春屋妙葩(しゅんおくみょうは)(普明国師・京都の相国寺開山)の活動がこの上林から舞鶴にかけてあったからです。

又、私事で恐縮ですが、下庄講中の中に私の親戚の家があり資料を頂くと共に,色々教えてもらったからです。

 さて講中の六戸は、綾部温泉のごく近くで睦寄橋のすぐ南の斜面にあります。

 仏像のある御堂は、その集落から約百メートルほど登った斜面にあります。御堂は瓦葺の平屋で二間四間程の広さで、壁は荒壁です。その奥の小壇に仏像が安置されています。写真で見られるように五体あります。中尊・木造薬師如来坐像、脇侍は日光・月光菩薩立像、二天立像でこれらの仏像は時の経過もあり、塗装はかなり落剥し、傷んでいますが、専門家の話では、これらは平安時代から鎌倉時代の作品だとのことです。

 ところで、下庄のある集落には裏側に紫玉山という山があり、史料によると、南北朝期の1370年頃に紫玉庵という寺があり、先程の春屋妙葩の活動があったのですが、これは紙面の都合で次回に記すことにして、彼の将軍義満への下庄に一寺建立をとの願いにより、明徳三年(北朝の1392)年に紫玉庵に近接して建立されたのが紫玉山金剛寺でした。

 さて、この小さな御堂の五体の仏像は、何時頃どのようにしてここに祀られたのでしょうか。地元では次のように伝承しています。

 下庄の奥には有名な古刹君尾山光明寺があり、盛時には七十二坊もあったと伝えられています。しかし戦国時代の大永七年(1527)の兵火にかかって二王門を除いて悉く焼きは払われたが、その当時大町と山内(綾部温泉の裏側)から君尾山に通ずる阿弥陀峠にあった阿弥陀堂が兵火に焼かれる直前、下庄の人々が堂内の仏像を運び出し下庄付近に隠していました。やがて世が静まる頃、隠匿していた五体の仏像を旧紫玉庵に安置し、阿弥陀如来を本尊として信仰を続けて来ました。

 その後、天正七年(1579)明智光秀の上林攻略に金剛寺は兵火に焼かれたが、その時阿弥陀、観音、勢至三尊、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)像と二王像は焼け残ったので

旧庵に納められました。しかし旧庵の荒廃ははげしく、江戸時代の初期に有志の手で補修が行われると共に、金剛寺も再建されました。このようになっても旧庵にあった仏像群は、そのまま下庄に残されていたが、明治初年辻堂廃止の令が出て再び金剛寺に移され、金剛寺の境内に新しい御堂が建てられて、ここに下庄阿弥陀講の諸仏と上庄(金剛寺)の諸仏が合祀されたといわれます。ところが昭和の初め下庄に不幸が相次いで起こったので,下庄の人が金剛寺にあった阿弥陀三尊,神像を持ち帰って、現在の場所に祀ったとのことです。今回はこれで終わります。とにかく上林谷の民衆の方々が、五百年にも及ぶ長い間、強い信仰心をもって仏像を護持されたことに、感動しています。 次回もこの仏像のことを続けます。
参考文献*下庄御堂について*村上祐二著」

 綾部市指定文化財  (注)写真を撮るために仏像を動かすのは大変重く、
三人で動かすのも不可能です。
 
     
二天像
1メートル40センチ強
 又お堂の関係で
五体一度には撮影不可能でした

二天像
1メートル40センチ強

     
勢至菩薩像
1メートル52センチ強
 阿弥陀如来像
58.1センチメートル
観音菩薩像
1メートル50センチ