睦寄町下庄講中の仏像について

(第二回)

         会長 村上高一

 今回は、先ず前回に紹介した春屋妙葩(しゅんおくみょうは)()明国師(みょうこくし))について記します。彼は、南北朝時代前半に活躍して後醍醐天皇、足利尊氏、(ただ)(よし)等に帰依された()(そう)()(せき)という高僧の弟子で、その指導を受けて成長しました。甲斐(かい)(山梨県)の生まれですが、若い頃に京都へ出て修行を重ね、天竜寺、南禅寺、相国寺などに歴住して枢要の地位に上り、幕府にもその名が知られて来ました。その中で、応安二年(一三六九)から四年にかけて、比叡山と禅宗の対立や、幕府管領細川頼之との対立が起こり一時中舞鶴の雲門寺に隠棲しました。その後頼之が政争に敗れて隠退する康歴元年(一三七九)、帰京して南禅寺の住持となり、初代の僧録司として禅宗寺院行政を握るまでの八年間、彼は度々丹後と京都を往復していたようです。

 即ち、丹後の舞鶴と国境の菅坂(すがさか)(とうげ)、大町、睦寄町の有安、古屋、更に(ほら)(とうげ)を経て、南丹市に入り、鶴ヶ岡から京都へと往還する時、前回に記した下庄の紫玉庵は好適な中継地であったと想像されます。

 

 私は五百年近い昔に、京都丹後間を結ぶ交通路の存在に驚いています。さて、

このような背景をもつ下庄講中も維持が困難となっていると聞いています。当番の家を中心に六戸で構成され、年一回御堂内外の大掃除が行われていますが、これも実質は四戸又は三戸に減少しているとのことです。これも過疎化の現象なのでしょう。その上講中の若い人の中には自分達で御堂を護りぬこうという気持ちが薄らぎ、他方、年配者の中には色々心配されている方もあります。そこでこの講中全体で十分話会われると共に、上庄講中の人々、更に金剛寺とも相談されては如何でしょうか。

左、金剛寺の綾部市指定文化財で日本でも有名な木造普明国師坐像(室町時代、像高六0・三センチメートル)