会報50号 平成12年4月20日     あやべの文化財    綾部の文化財を守る会のHPへ
 わがまちの文化財
 遺跡−わがまちの記憶−  綾部市教育委員会 近澤 豊明

 「文化財」という言葉は、戦後文化財保護法の制定に際し創られた新しい用語であるにもかかわらず、今や国民の間に広く知れわたった言葉となった。格別歴史に興味のない人でも、「文化財」と聞いて「なにそれ?」と答える人は少ないはずだ。

あやべ歴史のみち(青)
綾部市遺跡地図(赤)

 多くの人かこの言葉をしっているが、でもだからといって親しみを感じているわけではないようだ。「文化財ってなに?」と問うと、たいてい「ああ、あれね、京都や奈良にある古いお寺とかでしょ」とか「古墳なんかのことでしょ」など、わかったようなわからないような答えがかえってくる。
 私たちの祖先が営々と築いてきた文化的遺産を総称して「文化財」と呼ぶわけだから、とても便利な用語であるが、その分概念上曖昧になってしまうのも仕方がない。その曖昧さが一般市民にとって文化財に対する親近感がいまひとつ生じないことの一因かもしれない。
 言うまでもなく、文化財は現代市民生活のあらゆるところに存在し、実はわたくしたちが日常的に目にしているものである。わざわざ奈良や京都まで出かける必要はなく、旅行や遠足でしかみられないものでもない。ものすごく身近な存在であることを、文化財の中のひとつ「遺跡」というものを例ににとり、今回は話を進めよう。

 綾部市内にはたくさんの遺跡がある。いったいいくつの遺跡があるかというと、平成10年発行の『綾部市遺跡地図』には全部で472の遺跡か掲載されている。この472という数もあくまでその時点での仮の姿であって、実際は遺跡の数は無限であるといってもかまわない。
 そんなばかなと思われるかもしれないが、遺跡とはそういうものである。例えば、あなたの今住んでる家の下には今の家に建て替えられる前の家の痕跡が埋もれているはずだ。それは江戸時代のものかもしれないし、明治、大正、昭和のものかも、あるいは平成のもあるだろう。それらはみな遺跡である。あなたがかつて住んでいた古い家の写真や間取り図があれば、それは遺跡の記録である。

史跡地図(豊里A地区)

 何年以上古いものでないと遺跡と認めないという概念もなければ法律もないのである。「ああ、そうか、自分たちは遺跡の上にすんでいるのか」と気付いた時点でそれは遺跡となるのであって、それが珍しいものであるとか、学問上重要なものであるとかは、まったく別の問題なのである。
 そんなこととは関係なくすこしでも多くの遺跡とその情報を後世に伝えたい。ただし、無限にある遺跡を全部調べることは物理的に不可能だから、やむを得ずある程度限定しているのであって、一例をあげれば先に述べた平成10年発行『綾部市遺跡地図』における472という数字なのである。
 さて、そのひとつに青野西遺跡がある。この遺跡は、青野町の西方、市立病院から弥生団地の辺りにかけて拡がる古代の集落遺跡である。なぜこの遺跡を取り上げたかというと、今たまたま市立病院の増設に伴い発掘調査中で、病院には毎日たくさんの人が訪れるから市民の目にふれる機会も多いと思うのである。
 この辺りの地面の下には、弥生時代から古墳時代竪穴式住居址がたくさん眠っている。地下といっても現在の地表面からわずか数10cm掘り下げただけで住居址など古代の遺構が顔を出す。昭和63年市立病院建設時の発掘調査では、特に弥生時代後末期(1800年ほど前)の住居址が20ほどみつかった。今の病院はその上に建っているわけだが、実はここからは、住居址以外に当時のお墓もみつかっている。
 またちょっと変わったものとして、古代の地震跡(地震による液状化現象の跡)なんかもみつかった。だけど、病院とお墓や地震の組み合わせはどうも気持ちよくないらしいので、これらについてはあまり言わないようにしている。

史跡地図(中筋D綾部E地区)

 お墓と言えば、病院のすぐ西側の畑の中に「青野大塚古墳」と呼ばれているものが一基、こんもりとした佇いをみせている。これはまぎれもなく本来古墳なのであるが、墳頂上に小祠があり例の以仁王伝承と結びつき、さわると腹痛をおこすと崇められてきた。おかげで古墳はほば完全な形で残り今でも目にすることができる訳だが、病院と腹痛信仰との組合わせはちょっとおもしろい。
 この遺跡の西端に位置するのが今の弥生団地である。弥生団地は戸数70戸ほどの新興住宅地で、今から8年ほど前に市土地開発公社によって造成分譲された。地名では青野町鵜ノ目だから、例えは青野西団地とか鵜ノ目団地でもよいわけだか、「弥生」団地という名になったのは、べつに三月に分譲開始したからではない。
 もうお察しのことだろうが、団地造成に際して発掘調査したとき、弥生時代竪穴式住居方形周溝墓が多数みつかったからである。こちらから頼んだわけでもないのに、公社はそれを記念してとても粋なネーミングをしてくれた。平成の世の新興住宅街だから弥生時代の面影など見た目にはどこにもない。また弥生団地という名にしたからといってその不動産的価値か上かるものでもなかろう。
 しかし、この団地が遺跡の真上にあって、かつてこの地においてはるか二千年前の人々の営みかあったこと、その記憶は団地の名として語り継がれていくのである。たかが名前にして残しただけじゃないか、と批判するのは簡単なことだけど、こうした小さなことの積み重ねがやがて遺跡現状保存へと繋がっていくのだと思う。

埋蔵文化財包蔵地地名表

 すべての遺跡を保存できればそれにこしたことはないが、実際問題としてそうはいかない。多くの工事関係者から聞くことだか、ひとつの遺跡発堀調査が終わり工事に着手するとき、壊してもったいないなと思うことがよくあるそうだ。これは跡を破壊しなくてはならない立場にある彼らの弁解などではなく、一個人として本当に心からそう思うらしいのである。それが特に有名な遺跡であるとかないとかそんなことは関係なく、遺跡を前にしたときの人間の率直な思いとはみなそういうものであろう。
 前の奈良国立文化財研究所長であった田中琢先生は「遺跡の無いまちは、記憶の無いまちである」と言われた。実際には遺跡の無いまちなどこの世に存在しない。先生の言う「遺跡の無いまち」とは「遺跡を大切にせず安易に消しさってしまうようなまち」という意味だろう。記憶を喪失し呆然自失とならぬよう、わたしたちはしっかりとわがまちの遺跡をみつめそれを未来へ伝えていこう。
 頃は春の盛り、辺りを散策するには絶好の季節である。わがまちの遺跡を探しに出かけてみては。思わぬ発見に出会えますよ、きっと。遺跡は市民みんなで探すものだ。そして、みんなそれぞれの遺跡地図を作ってみよう。


会報51号 平成12年10月1日
 わがまちの文化財 その2 綾部市文化財余録

1.仏さんが胃カメラをのんで重文になったという話
 昨年6月のことだが、安国寺釈迦三尊像について、文化庁が調査に来るとの連絡を府教委より受けた。調査の目的は、その像が国の重要文化財の指定候補になっているためらしかった。

安国寺釈迦三尊・地蔵菩薩

 安国寺仏殿の本尊、釈迦三尊像は、釈迦如来を中尊に、両脇に獅子にのる文殊菩薩と、象にのる普賢菩薩を配している。南北朝時代の様式をよく残し、仏像としての出来もよく、しかるべき仏師の手によるものだろうと考えられていたものてある。既に、昭和45年に市指定、昭和58年府登録文化財となっていた。
 調査に来綾されたのは、文化庁の専門担当官数名に、国の文化財審議会の専門委員の先生方を加えた総勢6名ほどてあった。私も一応市の文化財担当として調査に立ち会ったが、仏像には全く専門外の私は、ただ見学していただけてある。
 三尊象はすべて台座からおろされ、三像とも隅々まで調べられた。特に像の胎内は入念に調べられる。内部に製作年や作者名か墨書されていることが多いからた(これぐらいは私にもわかる)。
 右脇侍の普賢菩薩の像内を調べていた先生が、何か書いてあると言い出した。その先生は、小さな鏡を棒の先に付けて像内に入れ、何とか判読しようと試みられるが、うまくいかない。墨書の位置か、像内の奥深くちょうど首の位置ぐらいになるからだ。そこで、この件に関しては、日を改めて再調査しようということになった。
 10月、再び来綾した文化庁の一行は、ファイバー・スコープを持参していた。この道具は、近年各種文化財の調査にもよく使われるが、病院で検査に使われる内視鏡、例の胃カメラというやつ、あれと同種のものだ。
 この胃カメラ、じゃなかった、ファイバー・スーコープを例の普賢菩薩の胎内に像下部から挿入していく、さすが菩薩様だけに何の文句もおっしゃらないが、管のついたレンズを挿入されるのはあまり気持ちのいいものではなかろう、と見ていて私は思った。なぜなら、数年前私は病院で胃カメラをのむはめになったことがあり(結果は何も異常なかったのだけど)、その時の苦しさ・辛さといったら、もうこんなもの二度とのむものかと心にかたく誓ったことがあったからだ。
 そうは言うものの、胃カメラの検査によって助かる命もあるし、それが有用であることに異存はない。今回の菩薩像内に入れられたファイバー・スコープも見事に墨書銘をとらえた。モニターに映し出された銘文は、「暦応□巳三月 豪円」とあった。暦応□巳とは暦応四年(1341年)のこと、豪円とは仏師の名で、その名から京仏師円派の流れをくむものと思われる。こうして、この像の製作年代と作者が確定したのである。
 これが決め手となって、安国寺の釈迦三尊像は今年6月27日付けで国の重要文化財に指定された。
 以上のとおり、安国寺の仏さんは胃カメラをのんで重文に格上げとなった。一方、私も胃カメラをのんだことがあるが、人格はいっこうに向上していない。

施福寺 地蔵菩薩半跏像 他

2.神社の御神体が実は縄文時代の石棒だったという話
 中上林睦合町葛禮本神社の境内に栄鉾祠と呼ばれる小伺がある。ここに御神体として祭られているものは、奇怪な陽物状の形状をした長さ1mほどの石の棒である。このことは、昭和32年発行の『中上林村誌』にも次のように記されている。
 「栄鉾祠生殖器神時代の遺物と称して高さ三尺余經三寸、十数年以前迄は風雨にさらされていたが祠に祭った。氏子の間では産の神と称し(うぶすなのかみ)出生後1ヶ月の宮詣でには必す真綿を供える風習があり今も尚つゞいている。
 その記述のとおり、今でも子安神として地元で大切に祭られている。
 さて、問題はその石の正体である。いやしくも御神体に対して、いろいろ詮索するのは恐れ多いことであるが、以下に述べる状況からそれも許していただけるのではないかと思う。
 結論から先に言うと、じつはこの石、今からはるか五千年前縄文時代中期に作られたものて、考古学上「石棒」と呼はれるものなのである。
 このことを最初に指摘したのは、私の職場の同僚である三好博喜君で、縄文時代を得意分野とする彼ならではの大発見である。
 三好君から最初にこの話を聞いたとき、私は一瞬信じられなかった。縄文石棒のように男性自身を形どったものを子授けの神として崇める例は広く後世にも見受けられる。葛禮本神社のもそういう類のものてはないかと思ったのである。でも、彼はそうではないと言う。縄文石棒にほばまちがいない、しかも欠損がなく完全な形にちかいものだと言った。
 予想もしない思わぬ発見があるからこそ、考古学はおもしろいのであるが、意外すぎてその瞬間にはピントこないこともある。しばらくしてから、その事実と重要性をあらためて再認識し、じわじわと興奮や感動がようやくわいてくるのだ。私にとって、この石棒の件はそうであった。

八津合八幡宮 普明国師座像

 そんなことはともあれ、この石棒については、地元の御理解と御協力のおかげて、着々と調査か進んている。三好君は縄文石棒に詳しい大下明さんに連絡をとった。大下さんは関西では縄文石棒研究の第一人者である。現物をみた大下さんは、縄文石棒にまちがいないと太鼓判をおし、現存する石棒西日本に限れば最大のものだといわれた。このことについては、今年六月の資料館講座で大下さん本人に講義していただいたから、受講されたかたはご存じだろう。
 この石棒、長さ95cm、最大径19cm、重さ57kg、傘状二投の頭部を有し、ほとんど欠損部のない堂々とした大形石棒である。現在詳細な調査が進行中であるが、一番の課題は、この石棒がどこで作られたかである。というのも、この石棒の石材は安山岩もしくは凝灰岩と呼ばれる火成岩質のもので、この種の石は上林はおろか綾部市周辺には産出しない。丹後半島か舞鶴の大浦半島あたりには火成岩の柱状節理がみられるらしいから、そのあたりを詳しく調べ生産地を特定したいものだ。石棒研究によると、重い大形石捧てあっても作られた場所とそれが使われた場所が遠く離れている場合が多いそうだ。
 いずれにせよ、上林の葛禮本神社の近くに本来この石棒を祭っていた縄文遺跡が(かなりの規模の集落遺跡が)あるにちがいない、と思う。そのことが今、私をわくわくさせている。


会報52号 平成13年4月20日
 わがまちの文化財 最終回 −あやべ歴史のみち−

 気がつけば、もう21世紀に入っている。私は仕事柄ひとつでも多くの文化財を21世紀に伝えていきたいと思ってやってきたが(いや私だけでなく多くの人がそう思ってきたであろうが)、いつのまにかその21世紀になっているのである。私が綾部市の文化財担当者となって早13年が過ぎようとしている。この十余年の間には文化財に関して結構いろんなことがあったのだが、多くの市民の熱意に対して私は充分その責を果たしただろうか。甚だ心もとない状況で、課題も多いと自覚している。
 そこでこのシリーズの最終回に際して、これからの課題と展望について私なりに書いてみようと思っていた。その矢先、木下禮次先生の訃報に接した。御葬儀に参列し、先生との思い出に耽っていると、「まさに巨星墜つの感あり」という弔辞の一節が聞こえてきて、なるほどそうだなと思った。

八田川・伊佐津川のみち

 先程の21世紀の話に戻るけど、木下先生は新世紀に入ったのを確認の上お亡くなりになられたのであろうか。後は万事君たちでよろしくと言うことであろうか。だとしたら、残された我々大変である。歴史や文化財あるいは地域文化に人一倍熱い情熱をお持ちであられた木下先生の、その思いに適うにはこれからどうすれはいいのだろう。
 文化財に関する課題は山ほどあるだろうが、新世紀に入ったことだし、明るい展望を述べることにしたい。以下に、ひとつの構想というかビジョンについて天国におれらる木下先生に聞いていただこう。
 『あやべ歴史のみち』構想なるひとつのビジョンがある。一応、市の構想のひとつとして簡単にまとめられているのだが、実はまだちょっと海のものとも山のものともわからないようなところかある。要は、これからの社会において文化財も含めた歴史的・風土的環境の積極的な保護と活用を目指した長期的プロジェクトの構想なのである。地域の文化や産業の振興あるいは都市計画的要素も盛り込んだ「壮大な」計画であるが、その分大風呂敷を広げた感なきにしもあらずである。そして、「歴史のみち」と呼ぶのもそれなりの意味があるのだけど、単なる街道整備事業では決してないのである。
 みち−それは一般的には人々の行き来するところを意味する。ただし、みちを往来するものは人間自身だけでなく、物資や情報など人間の文化もみちの上を行き来する。また、古来よりみちは陸上にのみあるものではなく、川や海あるいは空の上にもあって、それぞれ水路、空路などとよばれている。そして、このような交通上の導線のみならず。みちはあらゆる所にあり、例えば電子化された情報のみが行き交うみちもある。つまり、私たちの生活のあらゆる場所に多種多様の無数のみちがある(あった)わけである。
 みちを通して私たちは遠く離れた地域とつながっているわけだが、こうした「空間のみち」に対して、私たちをはるかなる過去や未来につないでくれる「時間のみち」もあるはずだ。そこで、この二つの機能を併せ持つみち、それはある意味においては概念上のみちであるかもしれないが、ともかくこれを「歴史のみち」と呼ぶことにする。

由良川のみち

 とまあ、我なからずいぶん講釈をたれたものだか (先生、笑っておられるかも)、要は綾部は文化財の宝庫だから、それらを歴史のみちという導線でつないでいくことによって、より一層輝き出さそうということである。綾部の人に綾部の豊かさを再認識してほしいのであって、その手段、きっかけとして「あやべ歴史のみち」はある。

 さて、先述のとおり、みちといってもいろんなみちかある。それにいくら概念上のみちというよりはやはり目に見えた方かいいだろう。そこで、「あやべ歴史のみち」は、「川のみち」とする。なぜなら、太古より、母なる由良川とその水系がもたらす豊かな自然環境のもと、綾部は、永年にわたり歴史や文化を育んできたからだ。また、水系を通して人や物資が行き交い、他地域の文化と交流してきたからてある。だから水系を重要視し、綾部にある様々な文化遺産を水系という導線で結んでいこう。こうすることによって、綾部はまち全体が博物館となるのである。
 これが「あやべ歴史のみち」構想の一端です。まだ充分に練られたものではありません。どうです、みなさん、いっしょにプランニングしていきませんか。絵空事だと、夢物語だと笑われても私は気にしない。どんなことも夢をみるところから始まり、そしてあきらめない限りいつかきっとそれはかなう。
 木下先生、あなたの教えはそうではありませんでしたか。