綾部の文化財を守る会 会報   あやべの文化財    綾部の文化財を守る会のHPへ
会報第1号(昭和45年)以来の「綾部の文化財」紹介の記事抜粋はこちらをクリックください。

年月 号数 表題・内容 寄稿者名
H25  77 NPO法人北近畿未来塾 細川幽斎と田辺城 天下分け目の籠城戦2  村上高一氏
H25  76 NPO法人北近畿未来塾  細川幽斎と田辺城 天下分け目の籠城戦1  村上高一氏
H24  75  NPO法人 北近畿みらい と 武田城跡 見学  村上高一氏 
H24 74  「位田の乱」について  村上高一氏 
H23  73  楞厳寺の旧国宝「不動明王画像」の日本への帰還を求めて  村上高一氏 
H23  73  書画に見る遊歴の僧「黙知軒光研上人」  出版物の紹介 真宮 均氏 
H23  72  綾部市総合文化祭に初めて参加して  村上高一氏 
H22  71  平城宮跡の見学と長屋王邸跡出土の木簡  村上高一氏 
H22  70  睦寄町下庄構中の仏像について(第2回) 村上高一氏 
H21  69  幕末・明治初期の丹波・丹後の三大画人の一人画僧 黙知軒光研の足跡    真宮 均氏 
H21  69  睦寄町下庄構中の仏像について  村上高一氏 
H21  68  学童集団疎開について 村上高一氏 
H20  67  塗料「カシュー」と御輿の修理  村上高一氏 
H20 66 医王寺と国重文・阿弥陀如来像 村上高一氏
H19 65 西福院境内に眠る 山鹿素水 =憂国の兵学者= 塩尻千賀良氏
H17 61 35周年記念講演:綾部九鬼藩歴代藩主と藩士たち 山崎 巌氏
H17 61 山家城址・武家屋敷・覚応寺金剛力士像について 塩見光夫氏
H16 58 文化財を守る会創立35周年を迎えて 大嶋文隆氏
H16 58 故渡辺正之助君を悼む 永井忠之
H16 58 景徳山「安国寺晋山式に出席して」 四方續夫
H16 58 第十八回「全国足利氏ゆかりの会」出席報告 大槻正則
S45 1〜 「綾部の文化財」紹介の記事抜粋

綾部の文化財シリ−ズ
年月 号数 表 題・内 容 寄稿者名
H25 77  室尾谷神社 綾部史談会:川端二三三郎会長 
H25  76  重要文化財 石田神社  姫路市 清水博之様
H24  75 重要文化財 旧岡花家住宅(木の花庵)大本  監修 綾部史談会会長:山崎巌氏 
H24  74  史跡「私市円山古墳」  綾部市資料館近澤豊明氏 
H23  73  郷社 八津合八幡宮  綾部史談会:引原英男氏 
H23  72  阿須々岐神社  七不思議伝説の由来 綾部史談会:新宮 均氏 
H22 71 可牟奈備神社 大宮一休大明神  綾部史談会:川端二三三郎副会長
H22  70  高倉神社 以仁王(てんいちさん) ひやそ踊り 四方幸則 宮司
H21 69  あやべ西国観音霊場第三番札所:羅漢山・宝住寺(臨済宗妙心寺派)   住職:河野義方師 
H21  68  あやべ西国観音霊場第十九番札所:東谷山・極楽寺(臨済宗東福寺派)   監修 住職:伊藤裕康師 
H20  67  あやべ西国観音霊場第三一番札所:永龍山・上林禅寺(臨済宗南禅寺派)  監修 住職:黒川泰信師 
H20 66 那智山 正暦寺の文化財 住職:玉川正信師
H19 65 阿日山 佛南寺(臨済宗妙心寺派) 住職:渡邊秀山師
H19 64 於与岐八幡宮・祭礼芸能 吉田晟祭礼芸能保存会代表
H18 63 高津八幡宮(元府社) 大槻正明宮司
H18 62 島萬神社(しままじんじゃ)太鼓踊・太刀振 渋谷計二宮司
H17 61 丹波のからす寺楞嚴寺(りょうごんじ 為廣哲堂師
H17 60 照福寺・照福寺庭園(国指定名勝) 和久弘昭師
H16 59 神宮山岩王寺 松井真海師
H16 58 景徳山安国寺 大槻正則
H15 57 君王山光明寺 媒林誠雄師
表 題   及び  関係社寺・史跡名など 投稿者名
s45 1 安国寺とその文化財 木下礼次
45 1 仁王像始末記 (覚応寺:旭町) 市教委 相根義夫
45 2 君尾山光明寺 梅原三郎
46 3 文化財調査に随行して 玉泉寺、施福寺、正歴寺、薬師堂 岩王寺 極楽寺 井上益一
46 3 物部地区の古墳より古代史をうかがう 岩田 実
46 4 舘の弥生遺跡 岩田 実
47 5 丹波ほおずき 丹波焼きの話し 田中栄治
47 6 木の花庵(旧岡花家住宅)について
48 7 丹波焼の窯元を訪ねて 中西 茂氏
48 7 青野遺跡の調査を終わって 由良川考古学会 中村孝行
49 8 山家の館址に立って 伊藤 喜久
49 9 青野遺跡の位置づけ 山下潔己
49 9 綾部の城下町について  木下礼次
50 10 甘酒講について  大唐内 酒井聖義
50 10 西原遺跡について 木下礼次
52 12 光明寺の梵鐘について
52 12 建田のこんぴらさん 井上益一
52 13 綾部の指定文化財地図
57 17 考現学の必要 木下礼次
58 18 文化財保護への道 木下礼次
59 19 駒札の建立 金剛寺 高津八幡宮 木下礼次
59 19 発掘調査と埋蔵文化財の保護 上林城址 久田山古墳群 青野・綾中地区遺跡群 由良川考古学会 中村孝行
60 20 駒札の建立 赤国神社 仏南寺 木下礼次
60 20 文化財を見る場合の知識(宝篋印塔など) 山下潔己
60 21 府指定文化財紹介  於与岐八幡宮 山下潔己
60 22 市指定文化財追加指定について 高津八幡宮 室尾谷神社 東光院
61 23 地域のたより  玉泉寺と大日如来  井上益一
61 23 白道路の歴史を歩く 四方静子さん
62 24 府新指定登録文化財の概要 石田神社 淵垣八幡宮 室尾谷神社 山下潔己
62 25 位田高城山 大槻哲雄
63 25 長楽寺と源頼光の伝説 西田好三
63 26 私の見た文化財 毎国庵 西村洋子
63 26 山家史誌を編纂して 山家史誌編纂委員長 小林 茂
63 26 府指定文化財 安国寺仏殿、方丈、庫裏
63 26 新指定文化財 安国寺文書 事務局
63 27 指定文化財紹介 安国寺山門、鐘楼 光明寺制札 上林禅寺襖絵
 玉泉寺木造大日如来像  楞厳寺縁起
h02 30 綾部の文化財を守る会 20年の記録 山下潔己
03 32 府指定文化財6件 八津合八幡宮本殿・一の鳥居 鍔口(宝蔵寺) 鍔口(光明寺) 君尾山トチノキ
03 33 彫物師柏原の中井氏のこと(八津合八幡宮本殿) 山下潔己
03 33 国指定文化財に聖塚、菖蒲塚古墳を答申
05 36 狛犬(高津八幡宮所蔵 木製獅子・狛犬一対 綾部市指定文化財) 山下潔己
05 37 道しるべ(3)
05 37 高津八幡山城 川端二三三郎
06 38 日前神社と湯立神楽 林 貞美
06 38 綾部八幡宮「お田植式」再興について 綾部八幡宮司 四方彰
06 39 府新指定文化財 光明寺本殿 正歴寺庭園
07 40 福田神社発見の棟札と鬼面 山下潔己
07 40 岩王寺の本堂と仁王門 事務局
07 41 吉美千年講について 木下礼次
08 42 文化財メモ帳(1)施福寺 山下潔己
08 43 地名雑記 村の名前
10 46 高津八幡宮について 大嶋文隆
12 50 先輩の地道な努力に敬服 文化財の駒札を取材して 仲林正則
12 50 わがまちの文化財  遺跡−わかまちの記憶− 市教委 近澤豊明
12 51 綾部市文化財余禄
13 52 あやべ歴史の道
12 50 提言 綾部の環境保護 地球は救えるのでしょうか? (有)ヴュルデ・ヴェレ 代表取締役 前田 行雄 氏
12 51 環境破壊の現状
13 52 私達にすぐ出来る事
13 52 綾部の国指定文化財について 大嶋文隆
13 53 建田の金比羅さん 仲林正則

会報に記載の記事内容
綾部の文化財・・その1
安国寺とその文化財  
綾部の文化財@ 昭和45年3月1日 会報第1号 木下礼次
 安国寺は綾部市安国寺町にある寺で、臨済宗東福寺派に属している古刹であるが、始めは光福寺といい真言宗であったようである。国道27号線から西へおれてしばらくいくと、巨樹や老樹に囲まれた安国寺に達することができる。そこには桜や楓樹が多く、春秋観光の名所であることを知ると共に、境内にある子安地蔵尊尊氏夫婦、義詮の宝篋印塔などに、往時の勢運をしのぶことができる。
 安国寺起源は詳らかでない。その所在が史上に明らかになるのは、鎌倉時代で後の関東管領となった上杉氏との関係においてである。上杉氏皇子将軍宗尊親王に従って関東に下向した勧修寺重房を祖とする。
 重房丹波国上杉莊所領とするが、その領内光福寺氏寺のようにして尊崇したことは、上杉朝定高槻保土地寄進状などで充分伺うことができる。
 足利尊氏が全国的に安国寺利生塔をおき国分寺の例にならおうとしたことは一般によく知られていることであるが、丹波安国寺として光福寺をあて、康永三年(1344)安国寺と改称し、貞和二年(1*45)全国安国寺の一として選定している。以後代々の足利将軍の厚い尊崇と保護をうけることになるのである。足利氏と光福寺(安国寺)の関係は、足利氏上杉氏姻戚関係によるものであって、特に尊氏生母上杉清子が、自分の出生、生育の土地として、なみなみならぬ気持ちを光福寺によせていたことは、寺内に所蔵される美しい「上杉清子かな書消息文」の行間に伺うことができるのである。このことは尊氏生誕国碑清子子安地蔵信仰の伝承によってきたるところを明らかにするものである。
 尊氏安国寺開山として自分の最も尊崇する万寿寺住職天庵妙受をあてたことは、乾峰士*の手になる「天庵和尚入寺山門疏」という文化財の逸品を当寺に伝えることとなるのであるが、安国寺には、この他多数のすぐれた文化財が所蔵されている。それら個々については後で述べるが、足利将軍管領また守護大名関係の古文書類は、中世郷土の動向を理解する唯一の文献であり、寺領の変遷消長を物語る。その内容は荘園関係の研究に欠くことの出来ない好史料である。なかでも尊氏日向国国富荘寄進した書状は、安国寺設置について、尊氏の心情を伺わしむるものとして学会有名なものである。
 安国寺は、上杉氏足利氏との関係で室町時代に栄えたが、やがて足利氏勢力の後退は、そのまま寺運の衰退につながることとなり、寺塔大破をみると共に、その所領もほとんど地方武士の奪うところとなる。
 そうして江戸初期にはわずかに二反余りの田地しかもたない全くの地方寺院となるが、綾部藩主九鬼氏山家藩主谷氏の尊崇や、梅迫豪農高雄氏寄進などを受けた記録を残しており、往時の隆昌を今日に伝える地方寺院の有力なものととしてその存在を誇っている。
 従って例年多くの著名人が訪れるところであるが、先年この地に曾遊した吉川英治が、早速その著「私本太平記」のなかで、一章に丹波国安国寺をとりあげたことは、読者の記憶になお新しいところである。
 以上安国寺について簡単に紹介した。「綾部の文化財を守る会」として、第一回史跡めぐり安国寺で行うことにしているので、参考にしていただければ幸甚であると思い、一文を草した。是非多数の方々のご参会をお願いする。

釈迦三尊像、本寺の本尊で中尊は釈迦如来、向かって右は文殊菩薩、左は普賢菩薩で、いずれも室町期の作と思われる。中尊は菩薩のような宝□をゆいあげた宝冠をかぶり、身には如来にふさわしい□衣を着ているが、菩薩のように胸飾りをつける。手は禅僧のように禅定印を結んでおり、盛上げ彩色の装色をしている。如来でありながら多く菩薩の姿をしていることは、修業途上にある釈迦の姿に禅宗として重要な意義を認めたものと思われる。

重要文化財 地蔵菩薩半跏像木造彩色寄木造で穏和な藤原様式の仏像であるが、各部の硬さが目立ち、おそらく鎌倉時代の作品であろう。安国寺光福寺といったころの仏像と考えられ、左手に宝珠、右手に錫杖をもち、左足を折りまげ、右足を垂れさげる半跏地蔵菩薩で、□衣を着けた胸元に裳の上端があらわされているのは珍しい。尊氏地蔵信仰は有名であり、さまざまな逸話が伝えられているが、この像にも母上杉清子が男子の出生を祈願して尊氏を生んだという伝説が結びついている。

重要文化財 天庵和尚入寺山門疏  安国寺説明の中でのべたように、高峰乾日の弟子であった天庵妙受康永四年1345没)が初代の安国寺住職となったとき、乾峰士曇が書いたと伝えられる祝辞である・この書は元の書風を自家のものとし、端正のうちに鋭い筆法であらわしていて、まことに堂々としている。
奥にある年号は欠けてわからなくなっているが、康永元年(1342)の作と伝えられ、乾峰58才のときの筆跡である。

市指定文化財 安国寺文書、紙本墨書三巻安国寺領に関係した古文書を集めたもので、南北、室町時代安国寺を中心にした丹波地方の歴史を研究する上に重要である。尊氏などの歴代定利将軍の御教書上杉清子の消息文など重要な古文書が多い。安国寺創立に関して尊氏の心情についての文書は、前に述べたところですが、尊氏、妻赤橋登子の遺骨が分骨されて本寺におくられたことも、二代将軍義詮御教書によってわかる。

重要文化財 医王寺阿弥陀如来坐像 梅迫町内谷にある医王寺は、往時内谷の隆盛時に栄えた寺であったが、現在一堂宇のみ残す無住の寺で、現在安国寺の管理するところとなっている。小高い丘の中腹のこの一小堂に阿弥陀如来の坐像が安置されている。医王寺はもと薬師如来が本尊であったことは、寺名からも伺えるところであるが、その本尊が盗難にあったので、かわって他寺から移されたのがこの阿弥陀如来像であるといわれる。
 この像は肉身部が粉留、衣の部分が彩色で仕上げている。如来像は普通□衣だけをつけるが、これはその上に袈裟をまとう姿になっており、鎌倉後期彫刻の特色といわれる盛上彩色で華麗な文様をあらわしている。
 胎内背面に「元享三年(1323)三月日法印尭円」と墨で書いてあって、この像の製作年代と作者がはっきりしているのは貴重である。尭円は京都三条仏所大仏師である。
 三条仏所院派仏所と共に藤原時代から京都仏所の名声をたかからしめた。この仏像は、京風の影響を受けた力強い作品で寄木造割りはぎというつくりかたである。
木下礼次 記
引用文献
京都府史跡勝地調査会報告・・・京都府
京都の文化財丹波編・・・京都府教育委員会
何鹿中世史料・・・綾部史談会

仁王像始末記  綾部市教育委員会  坂根義夫 氏
 綾部市山家地区旭町と云えば、山家の町並みを過ぎてしはらく行くと道の両側や、山ぶところに農家がまばらに見える最寄りがあります.上林川は時折り岩肌の中を流れているのが右下に見えます.此処が旭町です.部落の中央、街道から左手に石段があつてそれに続く山門、塀で囲まれた寺内には農家に比して一きわ大きな草葺きの庫裏と瓦屋根の本堂が見えます.境内の巨木も・・府道より見上げる塩谷山覚応寺は往時山家城主谷家の保護を受ける壇寺として、いかばかり威容をを持つていたことでしようか.禅寺として珍らしい仁王像を有し、末寺十三ケ寺を持つ地方随一の中本山も星移って今、檀家約四〇戸、資産もなく細々と寺院の体面を保つている様はまことに哀れであります.

 「仁王像が売られるそうな」こんなうわさを耳にしすぐさま山家に入りましたのは秋も稲刈最盛期頃でした。寺総代四方吉三郎氏宅は上林川に添つて山家でも一番奥です.漸やくたづねて来意を告げ様子を伺いましたが、想像していたとおり数少い檀家では大きな寺の維持は出来ぬ、庫裏の草葺屋根葺替えも毎年一部づつ資材、資金、労力の持寄りでやつて来たが、四苦八苦の有様、その上本堂、山門等々管理せねはならぬとあつてはとても耐えられるものではありません、まあ聞いて下さい、本山(妙心寺)からの寺割一つ取上げても寺格が上なので多額の納入を強いられるのです.とのことで聞くものすべてどうにもならねことはかりです、「もちろん仁王さんを売るようなことはやりたくないし残したい気持は充分なのですが」と残念な様子です.然しこちらも同情や感心はかりもしておれませんので、綾部には数少ない仁王像である上に文化財として価値あるものであり、第一に文化財を守ることの大切さから文化財を守る会としても困る、と訴えつゞけて帰りました.

 それでは此の仁王像が文化財としてどんな歴史を持ち又価値があるのでし上う.十一月末から十二月にかけて府文化財保護課佐々木技師、国立京都博物館井上技師の話しを総合して皆様にお伝え致します。
 解体修理などあつて確実な資料が判明する時はそれに随うとして、仁王像の制作時期は鎌倉期であります.これは平安朝風を多分に模していることと合せて運慶等の影響も又受けているからです。有名な奈良東大寺の仁王像を制作した運慶等の作柄を奈良風とするなれば、平安朝時代の作風を取入れこれを受継いだものを京都風ということが出来ます。この点覚寺仁王像は京都風というべきものでしよう。運慶等全国にある第一級国宝仁王像に対して此の像は、その次に位する貴重な像で重文級ということが出来ます.作者は二人(師と弟子)の合作で向つて右のものは豪壮で強力な感じが顔などに充分出ており師の作、左のものは全体におとなレい感じがする上に左足が外側に開き過ぎているまずさからも弟子の作と考えられます.
 兎に角此れは中央仏師の製作したもので、地方仏師のものではない.仁王像を中央(京都)より運んだか又は中央から仏師を招いて作らせたかでしよう.このように聞くと益々仁王像を放置して朽ちさせてはならぬ、海外流出などもつての外と憤りが出てくる.然し傾きかけた山門、腕その他の継ぎ目が随分空いて見える像、ほこりと虫食い甚だしい像の体、足、何とかしなければという感一しほ致しました。
 惜しい事ではあるが、百万手段は寺総代としても、市教委としても、府としても、又気にかけて我が事のように心配していただいた方々も尽くしていただきましたが、仁王像は契約通り美術商横山氏が買取ることになりました.唯救われましたことは、美術商横山氏の理解と府文化財保護課、国立京都博物館の骨折り、寺総代さん等の努力によつて海外流出をまぬがれ、一先づ国立京都博物館に安置することに決定したことであります.

 移転は一月二十三日天気は悪くありませんが残雪のある寒い日でした.当日は夫々大勢の人達が見守るうちに移転がはじまりました。先づ仁王さんの腕をはずす、みんなで仁王像を持上げて台から足をぬく、柵外に出して横にする、顔から白布で包む、腹をふとんで巻き網でしばつて担い上げるようにする.そして足にわらじを着けました。充分心得て一同で一歩一歩石段を降りましたが一体に約一時間です.ニ体とも宇都宮市から回送して来た美術品輸送車に無事乗せ終わった時は正午をかなり過ぎておりました.挨拶もそこそこに仁王像は京都に向いましたが、見送る人々、ことに長年親しんで拝された方達の心はどんなだつたでしよう
「仁王さん永年の農村鎮護御苦労様でした.住みなれた寺を出ることはつらいでしようが、どうか京都でおしあわせに」こんな気持ではなかつたかと思います.冬枯れの野を行く車、見送る農夫の疲れた顔、何もが過疎を表徴するものばかり、やがて我にかえつた人々は寒風すさぶ空きよな山門を見返り見返り散って行きました.


綾部の文化財・・その2
君尾山 光明寺  梅原三郎
1.君尾山への道
 綾部市で唯一の国宝である仁王門をもつ君尾山はハイキングコースとしても最適の地である。春はつつじ、さくら、夏は緑陰と涼風、秋はもみじと、自然の美を楽しむことができる。小学生の頃の遠足、中高校生時代のハイキングに光明寺を訪れた人は数多いであろう。今その通すじでたどつてみよう。
 京バス上林線君尾山口で下車、それより徒歩で北へ山沿いのなだらかな登り道を進むこと約700メートル、一つの小屋につく。自転車などが置いてあるが元来は弥勒堂である。ここまでは小型乗用車ならば入ることができるが、ここからは急坂となり車は一切通用しない。お堂の前には登山者のため親切に数本の杖が用意されている。
 杉木立の間の左へ右へ曲つた急な坂を2〜3百メートルも登ると地蔵堂に着く。ここで登山者は一休みして地蔵尊をを拝し、谷間から吹き上げてくる涼風を肌に入れて一息つくのである。この地蔵堂には四十四体の地蔵が祀られ、山内側からの登山路にある四十四体と合せて八十八体となるわけで、八十八ケ所信仰の形である。更に登ると右に突き出たところに床机が作りつけてある。お寺では花見台とよんでいるところで、春は谷間のつつじが見事である。ここを過ぎて、杉の巨木のあいだから上林谷の村々がちらほら見える坂道を登つて行くと立派なお堂の前に出る。千体地蔵堂という。ここで山内側からの登山路と合流する。
 地蔵堂からそれこそ胸つき八丁の急坂を5〜60メートル登ると、緑の樹間に朱塗りの色鮮かな国宝仁王門が堂々たる姿を現してくる。仁王門の構造美を鑑賞し仁王像を拝して通り抜けると道は平になり両側に石地蔵が祀られている。合わせて八十八体である。ここより約3百メートル登つたところに庫裡があり、そこへたどりつくと楳林老住職をはじめ家族の方々の温かい歓迎を受ける。バス停よりお寺まで約2キロメートルである.
 庫裡の庭から南方を眺めると、見はるかす彼方まで上林川が右手へ流れ、村々が点在し、人々の生業のようすが遠くうかがわれる。塵外の境にあるさわやかさを感じると共に、中世君尾山光明寺が上林地方を荘園として領有支配していた当時を想像することができる。
2、光明寺の歴史
 光明寺興廃記によると、推古天皇七年(599)聖徳太子の創立に始まり、天武天皇白鳳元年(673)役行者当山に来り住し修験練行の道場とした.寛平年中(889〜898)役行者の後継者で修験道中輿の祖といわれる醍醐寺の理源大師が入山し、修験道の大道場として再興したと伝えている。光明寺が最も栄えたのは平安より鎌倉へかけての時代で、上林七里の谷を荘園として支配し、山上山下に七十二坊と称する大寺院領主であつたものと思われる。
 荘園領主としての光明寺は、信仰の中心道場として山上に大伽藍を建立し、山下の寺町に行政を司る寺院をおき、一時は僧兵もいたもののようである.仁王門の棟札によると、仁治三年(1242)より建長五年(1253)まで十一ケ年を費して伽藍の改築を行い、仁王門はその間の宝治二年(1248)に完成したものである.
 室町時代になると大永七年(1527)戦国時代の動乱の中で兵火にかかり、仁王門を除く本堂、法華堂、常行堂、鎮守、拝殿、三重塔、行者堂、鐘楼、房舎等を消失した。その六年後、上林の豪族上羽丹波守が光明寺を再建した。(この時の勧進帳の断簡が今も寺に保存され当時の地方豪族のようすを知ることができる)元亀元年(1572)には明智光秀が兵を何鹿郡に進め、光明寺の宗徒を攻略した。天正七年(1574)光秀が再び攻め、火を放つて光明寺を焼いた.同十五年には光明寺は高田豊後守の支配に移り、寺領山林は先規の通り許されたが、寺運は衰頻をたどつた。
 慶長六年(1601)藤懸永勝が上林六千石の領主となつて以来、光明寺はその保護を受けたが、山上の寺坊も十七に減じ、享保十八年(1733)山下の二十三坊を焼失」天保七年(1863)現在の本堂が建立された。明治初年山上に残つていた四坊も一寺になり、大正三年(1914)に庫裡、方丈、客殿を焼失した。現存のものはその後建立したものである。
3,国宝仁王門
 仁王門は記簸によると永正十三年(1516)享保十六年(1731)安政六年(1859)の三回修理されているが、年代が下るに従つて荒廃していつた。明治三十七年特別保護建造物に指定されながら修理の機会を得ず、昭和二十四・五年頃には「たるき」は折れ、屋根はもり、下から何本もの支柱を立てて支えている無惨な姿であつた。住職楳林静雲師は本山醍醐寺の要職にあつたが、山門修覆を悲願として故山に帰り、自ら托鉢し文部省、府教委に訴え、遂に改築されることになつた。昭和二十六年文部省は四百二十万円を出し、地元負担を合せて四百七十五万円をもつて改築工事を進め、昭和二十七年修理完成、昭和二十九年三月新国宝に指定された.
 修理のための解体が進むうちに様式が鎌倉時代のものとわかつてきたが、特に上層背面の柱に「宝治二年戌」の文字が発見され、更に叡山の僧覚承の ′による棟札によつて鎌倉時代の建築であることが確認された。修理に当つては江戸時代の修理の際原型を変えたところがあることがわかり、原型に復した。建物は入母屋二間二面二重屋根で高さ四十二尺、赤青の彩色あざやかな楼門は均斉がよくとれている。
 屋根はトチ葺といい長さ二尺五寸、巾八寸厚さ八分の粟板、約四千五百枚を三重に手ちがいに重ねて葺いている.今回の修理では粟板の下に銅板を敷いたので、今後二百年以上は大丈夫だといわれている。この葺き方は非常に珍らしいもので、他には叡山根本中堂の廻廊など一二ケ所しかなく、建物の屋根会体がトチ葺なのはこの光明寺の門だけとのことである。
 用材はほとんどが杉であることは、当山に杉が多いからと思われる。修理にあたつてはなるべく古材をそのまま使つたが、取かえた二本の犬柱は木曾産のものを用いた。仁王門の木組は稍々繊細であるが、意匠的には格別の注意を払つた鎌倉時代の貴重な建造物である。
 仁王像は普通は門の前面に祀るのであるが、この門では後方の間に安置し前面の間を床張りにしてあるのは、この時代の仁王信仰の盛んであつた事を示すものである。
4、本  堂
 光明寺は創建以来度々火災にあい、かつての七堂伽藍は夢のあととなつて坊舎の屋敷あとだけ残つている。今庫裡の上の段に大きな本堂が建つているが、これは弘道上人が天保七年(1836)領主藤懸左京の援助によつて建てられたもので、本尊千手観音像は貞享二年(1685)時の領主藤懸永次公が日光の三木杉で彫らせて奉安したものである。鐘楼には慶長九年の銘のある梵鐘がかけられ、藤懸永勝の鋳させたものである。本堂正面に二基の大きな形の面白い石灯籠があるが、向つて左は元和三年六月の銘あり藤懸永勝の寄進、右は元禄十三年永次の寄進したものである。外に文化四年の法界塔や年代不明ながら相当に古い宝筐印塔がある。
5,文化財の保護
 国宝仁王門の修復完成後、楳林師はこの保護のための施設をつくるために奔走された。これも亦長い年月の努力であつたが、その甲斐あつて昭和四四年に六七〇万円の予算をもつて避雷針、警報器、放水銃四基がとりつけられ、尚山火事防止用放水銃二基もとりつけられた。この70%は国庫支出金、あとは府と当山で負担された。
 尚、火災の場合消防車が登れるよう防災道路の新設が目論まれているがまだ施工時期は決まつていない。こうして光明寺の住職を中心に文化財を守ろうとする人々の手によつて仁王門をはじめ多くの文化財が守られているが心ないハイカー等によつて朱塗りの柱に落書されたり、たばこの火の不始末の心配などがある.
 祖先の築いた貴重な文化財は私達市民の手でしつかり守り伝えていかなければならないものである。 (梅原三郎記
参考文献 綾部史談七五号 京都の文化財丹波編

 金 剛 寺
 当寺は紫玉山金剛寺と杯し、本音は延余地蔵尊、開山は春屋妙葩晋明国師)であって、現在は臨済宗南禅寺派に属する。
 もとは紫玉庵といい、元亨年中(1321一23)の創建と伝えるが、応安四年(1371)に南禅寺山門破却事件をめぐり五山の指専者であった妙葩管領細川頼之と対立し、舞鶴の雲門寺に隠棲した時期に京都往還の際この紫玉庵に休息するのを常としたところから、明徳二年(1390)に金剛寺と改称し、すでに没していた妙葩を開山とあがめるにいたったものである。
 妙葩が幕府と和解し南禅寺に環住したのは康暦元年(1379)であるが、その後将軍義満の発願になる相国寺の造営にも尽力した。上林荘はその大半が相国寺領にあてられたところから、当寺は相国寺寺領経営の拠点としても重きをなしたと思われるが、次第に衰退し天正七年(1579)には諸堂伽藍を悉く焼失し、慶安二年(1649)棟雲和尚によって現在地に再興されたものである。
 市指定文化財 木造普明国師坐像

 高津八幡宮

当八幡宮は、石清水八幡宮の別宮で、如意別宮といい、高津莊の総社である。
当社の縁起によれば、もとは法道仙人の開いた密教練行道場であったが、元慶五年(881)山城国男山から金鳩が飛来したのを奇瑞として、八幡宮が勧請されたと伝える。明応九年(1500)災禍に遭い、社殿を焼失したが、翌文亀元年に再建された。別当寺御所坊極楽寺などと称え、後に究意院と改め、、醍醐三宝院派に属した。
近世初頃、福知山藩主有馬豊氏、綾部藩主九鬼隆季など歴代領主の尊崇を得て、社領の寄進をうけている。
現在の社殿は、九鬼隆都の企てにより、天保十年(1839)起工、嘉永五年(1852)に完成した。
宮大工は、地元延村の桑原兵右衛門で、向背の竜彫物は、大坂の彫物師の手になる。
府下でも有数の代表的社寺建築である。
なお参道の長い石段に、天明四年(1784)から文化十二年まで、二十余年にわたり、村民の寄進により築造されたものである。
 綾部の文化財を守る会

市指定文化財追加指定について 高津八幡宮 室尾谷神社 東光院
◎木造随身坐像二躯 (五津合町 室尾谷神社)

時 代 室町時代
像高阿形 38.7センチ
   吽形 38.4センチ
 主神を守護する随身像二躯で、各々巾子冠を戴き袍を着けて安坐する姿である。一方はロをやや開き他方は口を閉じる阿吽の形に造りわける。
 各像の像底及び吽形の首柄底面には別記のごとく墨書銘があり、応永三十二年(1425)に製作されたことが判明し、同時に願主、檀那、仏師、彩色絵師など造立事情を知ることができる。専門の仏師の手になっただけあって、簡潔な作風のなかにも立体的にしっかりした造型で、当代神像彫刻の一基準作となしうる。
  墨書銘
(阿形像像底墨書) 文中/は改行のくぎり
大願主道義敬白/大仏師法眼林皎圓宗/ 永卅天乙巳困林鐘/井絵師蔵人禅了賀口/檀那玉井殿敬白/代物弐貫伍百文御衣代口木/大吉日以開眼此有/布説代参百文
(吽形像像底墨書)
檀那玉井敬白/大仏師法眼林 圓宗 皆應永天乙巳林鐘/絵所蔵人禅了賀口/大願主道義敬白
(吽形像首 底面墨書)乙巳壬秋/大仏師法眼

◎経櫃懸子(上延町 東光院)
時 代 室町時代
法 量 縦38.5センチ 横32.4センチ
     高4センチ
 経櫃の懸子で、杉板製漆塗りで、長方形・底桟板
(内底漆書)
 当国何鹿郡位田乱仁般若烟焼処丑歳六月八日上志万於古曽戸之宮烟焼然今明応八年已未五月十八日此帙箱筆畢
(底裏奉書
天文弐年みつのとの己年大般若経一部奉転読出家午年口僧すけ山宝光坊口口淳長房
 (以上京都府文化財保護基金   「京都の美術工芸中丹編より抜粋