「大唐皇帝陵展」を見る HP:綾部の文化財 TOPへ
二号車 上野町 町井且昌 氏
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| 岡寺の国重文「仁王門」をバックに二号車の皆さん |
六月三日快晴の飛鳥路を巡り、最期の見学箇所奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に着きました。場所は大和三山のひとつ、畝傍山の東麓。午前中、標高一四八メートルの甘橿丘万葉展望台からこのあたり一円を俯瞰していたので、大和地方に土地勘のないわたしでも大体の位置関係がつかめました。
博物館は神武天皇陵に隣接した広大な緑地の中にあって、瀟洒な二階建。淡いピンクのタイルで覆われたお洒落な建物でした。
ざっと展覧会の全体像を知っておくために、ズッシリと重い図録を買いました。
パラパラっとページを繰ってみると、平城遷都一三00年記念の催しであること、奈良県と中国陝西省が協力して開催すること、陝西省から唐代陵墓の発掘調査で得られた最新の出土品の中から選んだ文物八0件と唐の影響を受けた奈良三彩を展示していることが分りました。
私の乏しい歴史の知識では、中国の古代王朝の座標がはっきりしません。以前訪れた「秦の始皇帝」の秦の後であることと位置的にも近いところかなと見当をつけました。
後で高校時代の教科書で調べてみると、唐が興ったのは西暦六一八年、長安が都でした。長安は今の西安です。その後、一九皇帝を擁し、一0世紀初頭まで続きました。皇帝の墓は陵と呼ばれますが、一九皇帝のうち、一八陵が長安の北に分布して、陝西省にある。それで唐一八陵展とも呼ばれているわけです。
最近でた「大和路の旅」(上田正昭著・角川書店)によれば、当時我が国に渡来した唐人は少なくなく、唐の進んだ文化や技術を伝えたといいます。当時の通貨「富本」は唐の「開元通宝」を模して鋳造されたものらしい。唐人の皇甫東朝は日本に来て、日本人と同じように位を授かり,官人として二0年以上も活躍したと伝えられています。
留学生として唐に渡り、そのまま玄宗皇帝に仕えた阿倍仲麻呂のちょうど反対になりますね。それほど唐と大和は密度の濃い交流があったのです。
館内は多くの人でいっぱい。展示室ごとに見学者が説明役のキュレーター(学芸員)を囲んでいました。
?(せん)というのは土を固めて焼いたもの。かって訪れた万里の長城は?、つまり土焼レンガでできています。
「鬼面文?」は建物の装飾に使われたもののようですが、図柄が面白い。顔をしかめた鬼の額には皺がいっぱい。頭髪は逆巻き、大きなマンマルな目玉、眉は跳ね上がり、鼻はひしゃげている。思わずニンマリする愉快な御面相。
これと同じように鬼面は飛鳥時代後半の軒丸瓦、隅木蓋瓦にも見られると説明板にありました。
愉快といえば「加彩十二支俑」。俑(よう)というのは,殉死者に代わって埋葬される人形の」ことで、一九七四年、西安近郊で発見された「兵馬俑」ですっかり有名になりましたが、ここの俑は頭はネズミ、首から下は当時の中国の官吏の服装をしています。ウマ、ヒツジ、サル、ヘビなどがずらっと並ぶと小さなものですが壮観で、笑ってしまいます。
ソファで一休みしていると、団体が多いのに気がつきました。老若男女、子供のグループもゾロゾロ。
大きなガラス越に見える新緑の美しいこと。傾きかけた陽を浴びて、ことのほかきれいに映えていました。
土を焼いて作った陶俑もたくさんありました。「加彩風帽子男子俑」や「加彩騎馬女子俑」など色が鮮やかで、魅力的です。
かって見た秦の始皇帝陵は兵馬俑が隊伍を組んで、数も大きさも、一回りもふたまわりも大がかりだったのですが、唐傭は大きいものでせいぜい一メートル以下。実に可愛い。
一四00年も眠っていた文物を見続けていると、悠久の時間にエネルギーを吸い取られているようで、心地よい疲労を覚えます。
ここらでちょいと一休みとばかりカフェに駆け込みよく冷えたビールをグイと飲み干しました。