世界文化遺産 奈良の国宝を訪ねて 興福寺と その周辺  綾部の文化財HPへ

11月17日(木)錦秋の中、「世界文化遺産:奈良の国宝を訪ねて」第11回秋の文化財・史跡学習会(綾部の文化財を守る会)が、バス2台78名の参加で盛大に実施された。
東大寺中門前で、華厳宗総本山・国宝大仏殿をバックに宝珠院々長兼勧学院々長:佐保山堯春師と共に記念写真撮影後、同師のご案内で大仏(廬舎那仏)を間近に拝観、二月堂、三月堂などの伽藍、仏像を拝観午後は興福寺に廻り記念写真を国宝五重塔をバックに号車ごとに撮影。 その後国宝間に展示された仏像、南円堂などを見て回った。
興福寺(法相宗大本山)の略歴 
 南都(奈良)七大寺に数えられる興福寺は、京都山科、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)私邸に建立されたやま山階(やましな)寺に始まり、飛鳥を経て平城遷都(せんと)に伴い現在地に移り興福寺と号した。
 藤原氏の氏寺として隆盛し、平安時代には大和国(奈良県)を支配し、僧兵を擁し、比叡山延暦寺とともに、なんと南都北嶺(ほくれい)と呼ばれおそ畏れられた。
 東大寺
と同様、治承四年(1180)に平重盛の南都焼き討ちで大半の堂塔を焼失したが鎌倉時代に復興。
 その後も、堂塔は焼失と再建を繰り返したが、寺勢は徐々に衰え、明治廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で崩壊寸前に追い込まれたが、それでも東金堂(国宝)五重塔(国宝)、北円堂(国宝)三重塔(国宝)南円堂(国宝)などが残り、昭和33年(1958)に「国宝館」が出来て各国宝の建物より、数多くの国宝・重文が移され此処で展示されています。
興福寺国宝館
 昭和34年(1959)に,旧食堂・細殿跡に興福寺宝物収蔵庫として建設され仏像彫刻・絵画・工芸品・典籍文書・考古資料等の寺宝を各所から集めて最優秀品を展示しています。
陳列品は、一部変更になる場合がありますが、お世話役がお渡しする「拝観券」を開き順次鑑賞下さい。
 特に、入り口から左の中の、阿修羅像(国宝で天平六年(734)は「拝観券」の表紙にもあり・八部衆立像(八部衆とは沙羯羅(さから)、鳩槃茶(くばんだ)、乾闥婆(けんだだつば)、阿修羅)あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、畢婆迦羅(ひばから)、五部浄(ごぶじょう)をさす。そのなかの阿修羅は、通常、三面六臂(さんめんろっぴ:三つの顔と六本の腕)の荒々しい戦闘神として表されるが、この像は少年のような清純さと神秘性を併せ持っている脱活乾漆造りであり有名である。
 板彫十二神像(国宝・木造り・平安時代)金剛力士像(国宝・鎌倉時代)、天灯鬼・竜灯鬼像(国宝・木造・鎌倉時代)等は見逃せない。
 国宝の南円堂、北円堂、中金堂より持ってきて展示しているものも多い。国宝合計は、ざっと28、重文は、ざっと10像以上です。(綾部の文化財を守る会会報より)
興福寺略史(興福寺国宝館拝観券より)
 興福寺天智天皇8年(669)、中臣(藤原)鎌足の私邸(山城国宇治郡山階)に建てられた山階寺(やましなでら)を起源とし、天武朝には大和国高市郡に移って厩坂寺(うまやさかでら)と称されました。元明朝の和銅3年(7 1 0)に都が平城に遷されると、鎌足の子息藤原不比等(ふひと)は、厩坂寺を新都に移すべく、平城京左京三条七坊の地に寺地を確保して寺名を興福寺と改めました。和銅7年(714)に金堂が創建され、不比等の一周忌の養老5年(721)に北円堂が建立されました、ぞの後、聖武天皇や不比等の娘である光明皇后の発願によって東金堂五重塔が建てられ、やがて、七堂伽藍の大寺院になりました。
 奈良・平安時代に寺観・内容ともに充実した興福寺藤原氏の氏寺として栄え、平安中期以降は春日社をも支配して勢力を拡充し、法相(ほっそう)教学を研鎌する法相宗の大寺として南都仏教界の重鎮となりました。しかし、長い歴史のなかで、戦火や天災などによって度々堂塔が焼失しました。とくに治承4年(1180)の兵火は興福寺を焼亡させましたが、仏師院尊や成朝・明円・康慶・運慶などの有名々巧匠たちが参画した、いわゆる鎌倉復興造営がおこなわれました。
鎌倉時代は武士勢力が強くなりますが、幕府は大和に守護職を置かず、興福寺をしてその任に当たらせたということは、往時の興福寺が各方面に与える影響がいかに大きかったかがわかります。
 戦国時代になると武士勢力が強大となり、織豊時代は、検地によって寺領削減がおこなわれ、寺院勢力の弱体化が進行しました。
江戸時代になると、亨保2年(1717)の大火で中心髄藍のほとんどが焼失レました。この火災では、かろうじて東金堂・五重塔・食堂・北円堂・三重塔・大湯屋が罹災からまぬがれ、その後、ようやく南円堂と中金堂のみが再建されました。
 明治初頭、神仏分離による廃仏殿釈(はいぶつきしやく)が断行され、興福寺は瓦解同様の姿となりましたが、その後の努力で法灯護持がなされ、現在もなお復興途上にあります。
国宝館
 昭和34年(1959)、旧食堂・細殿跡に興福寺宝物収蔵庫を建設して一般に公開。通称名「興福寺国宝館」として、広く海外にも知られています。当館は仏像彫刻・絵画・工芸品・典籍文書・考古資料・歴史資料などの寺宝(文化財)を多数収蔵し、この中の優品を展示公開しています。
国宝 薬師如来仏頭[銅造:白鳳時代・天武14年(685)]写真@
国宝 阿修羅像(八部衆像)(表紙写真)・十大弟子像[乾漆造:奈良時代・天平6年(734)]写真A
重文 仏手[銀造:奈良時代]
国宝 板彫十二神将像[木造:平安時代]写真B
重文 薬師如来坐像[木造:平安時代]
重文 釈迦如来坐像[木造:平安時代]
重文 地蔵菩薩像[木造:平安時代]
国宝 法相六祖坐像[木造:鎌倉時代:康慶作・文治5年(1189)]写真C
重文 梵天像[木造:鎌倉時代:定慶作・建仁2年(1202)]
国宝 金剛力士像[木造:鎌倉時代]写真D
重文 釈迦如来仏頭[木造:鎌倉時代]
国宝 天灯鬼・竜灯鬼像[木造:鎌倉時代:康弁作・建保3年(1215)]写真E
国宝 千手観音像[木造:鎌倉時代]写真F
重文 梵天・帝釈天像[木造:鎌倉時代]
重文 阿弥陀如来坐像[木造:鎌倉時代]
重文 弥勒仏半跏像[木造:鎌倉時代]
重文 吉祥天倚像[木造:南北朝時代:寛慶作・暦応3年(1340)]写真G
磬[銅造:中国唐時代]写真H
国宝 中金堂鎮壇具[銀鋺:銀製鍍金鋺・水晶玉:奈良時代]
国宝 南円堂灯篭・火袋扉[銅造:平安時代:弘仁7年(816)]写真I
県指定 舎利厨子[木造:南北朝〜室町時代]
 *これらの収蔵安置のものは、随時移動がありますのでご了承下さい

@仏頭、A須菩提像、B迷企羅像、C伝玄ム像、D阿形像、E竜灯鬼像、F千手観音像、G吉祥天倚像、H華原磬、I火袋扉銘文

国宝 梵鐘[銅造:奈良時代:神亀4年(727)]
国宝 華原
1998年12月 興福寺は世界文化遺産に登録されました
以上、興福寺国宝館拝観券に記載の説明から収録。

冊子「興福寺」表紙
国宝館は撮影禁止で、館内入り口で販売されていたカラ−グラビア刷りの仏像や説明、年表など詳細に掲載された100ペ−ジほどの冊子(英語版もあり)を買いました。
写真を見るだけでも楽しく、詳しい資料集です。
興福寺国宝館の見学を終え、集合の一行。これから自由行動タイム。
「興福寺・東金堂(国宝)」は興福寺の三つの金堂の一つであり、亀神三年(726)創建ですが、六度も焼失に遭い、応永二十二年(1415)再建されたものです。
内部には、薬師如来(室町時代・国重文)、日光・月光菩薩立像(白鳳時代の七世紀・銅造・国重文)は文治三年(1187)に飛鳥山田寺から移されたと云われています。文殊菩薩坐像((桧材・寄木造・鎌倉初期・国宝)、ゆいま維摩こじ居士座像(桧・寄木造。鎌倉初期・国宝)、十二神将立像(寄木造・鎌倉初期・国宝)四天王立像(桧・一本造・平安初期・国宝)等がある。
五重搭(国宝)
 高さ51メートル。古塔としては、京都の東寺の五重塔55メートルに次ぐ高さで、天平二年(730)藤原不比等の娘・光明皇后の発願で建立。現存の建物は、室町時代の応永十三年(1426)に建てられた六度目の室町時代の建物ながら、全体に創建当時を伝える純和様の名建築である
五重塔(国宝)と東金堂(国宝)
中金殿とその跡地
 伽藍の中心である中金堂は、江戸時代の享保(1717)の大火の後、100年後、町人の京屋市左衛門の努力により仮堂として建てられたものである。
中金堂跡を横切る鹿、五重塔を背景に

南円堂(県文化財)へ向かう
大きなカメラを持って写真を撮っていると、修学旅行の生徒グル−プから写真撮影を頼まれる。気持ちよく引き受けて、各自好きなポ−ズをするように話しかけて撮る。大抵はフィルム・カメラと云うのか、使い捨てが多い。また小型カメラのグル−プもあり、一つのカメラを仲間で使い、互いに写しっこしているが、時には全員で撮って欲しくて、写真に強そうな人を見込んで頼んでくる。大体同じあたりをぶらついているので、帰りに何処から来たのなど声をかける。愛知県など、結構遠くから来ているようだ。
南円堂(県文化財)
 西国三十三箇所九番札所。北円堂と対になる八角円堂。現在の堂は江戸時代・寛政元年(1789)に再建されたもので、国宝の像は「興福寺国宝館」で拝見してきた。
北円堂(国宝)
 興福寺の創健者、藤原不比等の一周忌にあたる養老五年(721)に慰霊のため元明太上天皇と元正天皇のほつがん発願により建てられた。興福寺の北西隅に建ち、仏堂としては珍しい八角堂。現在の建物は承元四年(1210)に再建されたもので、創建当時の姿を良く残し、構造の細部は、貫の使用など、鎌倉時代の大仏様の技法を取り入れ強化が図られている。
 総高15.2メートルの規模をもつ八角堂は鎌倉初期の名建築である。
三重塔(国宝)
 南円堂から猿沢池への石段へ降りる途中にあり、平安時代に建立されたものですが、現存のものは、建立年代が定かでないが、鎌倉初期に藤原様式で体験されたもので高さ18メートル。
興福寺北参道 世界文化遺産 記念の石標
鹿と遊ぶ 紅葉と鹿
猿沢の池に下りていく。バス仲間が集まっている 猿沢の池:ポランティア・ガイドさんを囲んで
猿沢の池、かなり広い 亀が沈木に群がっていた。一万年生きると言われる亀は、
平城京の昔を知っているのかな
広々とした猿沢の池。木立が影を落としている 猿沢の池を巡る遊歩道を散策
国宝の五重塔を目指していくと、横断道路があります。そこを渡ると目の下に、懐かしの「猿沢池」があります。そこから、更に南へと歩いていきますと今、有名な奈良町センター街へでます。買い物やお茶を一服飲んで休む等の楽しみもあります。
 春日大社の見学も可能で、五重塔へ向かい、そこから東へ向かうと、「春日大社一の鳥居」がありその奥が「春日大社」です。
 又少し、歩いて頑張れば先ほどの東大寺の「国宝・戒壇院・内部の四天王像(国宝)が有名」拝観料500・と「正倉院」外部のみ見学可能へ行けます
写真:興福寺周辺の紅葉を楽しむ。南円堂の石段を下りて。
猿沢の池ほとり
見事な紅葉 黄色もきれい
紅葉ごしに南円堂の屋根をみる 南円堂のそばの石段を下りると、祭壇があり参拝されていた。
右手に三重塔(国宝)が建つ
午後の研修は興福寺。バス2台で興福寺国宝館に到着、直ちに五重塔をバックに号車毎に記念写真撮影
昼食は、東大寺と午後の研修先である興福寺の近くの「なら和み館」であった。
200名の団体収容可能の大広間:食事中にお土産の宣伝説明があり、お土産サ−ビス券をいただいた。
写真:高校生修学旅行の一行が食事中風景
なら和み館 お膳紙より(大きな白紙の四分の一左端に印刷)

むかしむかしのお話‥・
いつも独りぼっちな鬼がいました。
近くの村へ遊びに行っても、追い返されて恐れられ、誰も近寄ってきません。
「あの鬼はいつも怖い顔をして近寄ってくる、いつか食べられちまうそ!」
鬼はいつも、寂しくて寂しくて、泣いてばかりいました。
「暗い山道を歩いていたら、いきなり鬼が出てきて道せんぼをして、びっくりして急いで逃げ帰ったんだ。」
「鬼が今年の収穫全部を、いきなり掴んで逃げてったんだ。一緒に俺も喰われるところだった。」
本当は遊んで欲しくて、村人の前に立って道せんぼをしたり、村人の重そうな荷物を鬼は持ってやろうとしただけなのに‥・
このお話の続きは和み館でのお楽しみ!
買い物に寄るのは、ここだけとあって皆、せい一杯の買い物に熱中。
早速地図とパンフレットと、お話のつづきを聞きに売店へ一番乗り。
まだ買い物客は誰も居られなかったので、中央レジの責任者と思われる方にお尋ねする。つづきはその場では聞けなかったので、後日FAXでお尋ねし、丁寧にメ−ルの添付文書を頂きました。
>「和み鬼」の話は民話でも昔話でもなく、「なら和み館」のコンセプトとして作られたお話のため、本・お菓子・キャラクターグッズ等今のところ御座いません。
と云うことでした。
>前略・・・村の優しいおじいさんの大きな心が愛情を生み、愛情が微笑みを生み、素直な心が相手を見させ、微笑が映る。微笑みの映りあいが和み、囲炉裏の火のようにお互いを温めました。・・・後略
詳しく知りたい方は「なら和み館」にお問い合わせください。
レジでいただいた「なら和み館」のパンフレット
「観光した後は和み館へ、なら和み館で会いましょう」