世界文化遺産:奈良の国宝を訪ねて 東大寺・興福寺 とその周辺  綾部の文化財HPへ

11月17日(木)錦秋の中、「世界文化遺産:奈良の国宝を訪ねて」第11回秋の文化財・史跡学習会(綾部の文化財を守る会)が、バス2台78名の参加で盛大に実施された。
東大寺中門前で、華厳宗総本山・国宝大仏殿をバックに宝珠院々長兼勧学院々長:佐保山堯春師と共に記念写真撮影後、同師のご案内で大仏(廬舎那仏)を間近に拝観、
二月堂、三月堂などの伽藍、仏像を拝観。午後は興福寺に廻り記念写真を国宝五重塔をバックに号車ごとに撮影。 その後国宝間に展示された仏像、南円堂などを見て回った。

バス2台80名の参加。7時に出発。バスガイドさんの話を聞きながら 東大寺に到着、バス停で現地ポランティア・ガイドさん四人(男女各二人)が
待っていてくださった。案内に従い、東大寺南大門に向かって歩く。
周りは修学旅行の小、中、高せいなどで一杯。鹿がついて回っている。
お土産の売店が並ぶ。鹿センベイも売っている。
東大寺南大門(国宝)と金剛力士像(国宝)
 天平勝宝四年(752)に創建された東大寺の正面で、十二世紀後半の台風による倒壊や治承の兵火を得て、重源上人が宋の技術を導入してつくらせた、いわゆる「大仏様式」の代表的な建物で重層入母屋造りの五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造である。また、屋根裏まで達する大円柱十八本は21メートル、基壇上25.46メートルに達する我が国最大の山門である。
両側の阿吽の金剛力士像(国宝)にしばし対面。帰りの拝観を期して通り抜ける。
東大寺南大門から中門を目指して歩く。
東大寺中門前で、華厳宗総本山・国宝大仏殿をバックに宝珠院々長兼勧学院々長:佐保山堯春師と共に記念写真撮影
中門で記念写真、バス2台分(80名)を一度に撮るつもり。
中門の間から大仏殿が見え、写真の背景に納まった
記念写真を撮り終えて、一号車はのメンバ−は、大仏殿へ、
2号車は鐘楼へのコ−スを行く。大仏殿を右に向かう。
大仏殿の右側を歩く
鐘楼への石段を登る一行。
鐘楼(国宝)
ひときわ天空にそびえる鐘楼は、鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人を継ぎ、大勧進となった
栄西(ようさい)禅師が承元年間(1207〜10)に再建したもので
大仏様や禅宗様的な要素を加味した豪快な建物である。
石段を登り切ると、鐘楼前の広場で、大勢の修学旅行の生徒たちが鹿と遊んでいた
梵鐘(国宝)
重さ26.3トンもある梵鐘(国宝)は東大寺創建時のもので、
鐘声の振幅は非常に長く「奈良太郎」と呼ばれ、日本三名鐘の一つである
鐘楼(国宝)
我々一行を鹿が迎えてくれた
念仏堂(国重文)
鐘楼の東にある寄棟造りの念仏堂はもとは地蔵堂といわれ、鎌倉時代の建物である。
堂内には嘉禎三年(1237)に仏師・康清が造った地蔵菩薩像(国重文)がある。
三月堂に向かって
三月堂に向かって歩く
三月堂に向かって
三月堂の石段を登る
国宝「開山堂」を外から斜め向かいに見て二月堂へ向かいます。
中には、鎌倉時代、鷲にさらわれ、杉の木の上に下ろされて
、後に名僧となった良(ろう)弁(べん)僧正の秘仏「良弁僧正坐像・国宝」
(十二月十六日のみ特別開扉)が祀られています。
法華堂(三月堂)(国宝)
 修学旅行などでは中々入れないところ、拝観料を支払い拝観・見学する。「拝観券の裏の内陣配置図」を見ながら観賞してください。
 法華堂は天平十二年(740)から十九年までの創建と考えられている東大寺最古の建物である。不空(ふくう)羂索(けんさく)観音を本尊とするところから羂索堂と呼ばれていたが、毎年三月に法華会(ほっけえ)が行われたところから、後に法華堂と呼ばれるようになりました。この法華堂は東大寺の前身である金(きん)鐘寺(しょうじ)の主要伽藍(がらん)の一つであり、華厳経が日本で初めて講義された所と云われています。
四月堂と一行
手向山八幡宮
法華堂(国宝)は、天平12年(740)から19年までの創建と考えられている東大寺最古の建物である。この辺り一帯に聖武天皇の皇太子基(もとい)(某)親王の菩提をとむらうために建てられた全鐘寺(きんしょうじ・こんしゅじ)と呼ばれる寺院があり、それがやがて太和国国分寺、さらには東大寺へと発展した。不空(ふくう)羂索(けんさく)観音を本尊とするところから古くは羂索堂と呼ばれていたが、毎年3月に法華会が行なわれたことから、のちに法草堂と呼ばれるようになった。後方の正堂部分と前方の礼堂と二つの部分からなっており、当初は双堂(ならびどう)形式の建物であったが、現在の礼堂部分は正治元年(1199)に重源上人によって新造されたものである。全鐘寺の主要個藍のひとつとして、このお堂で華厳経が日本で初めて講議されたともいわれている。
 堂内には本尊の不空羂索観音像を中心に合計16体の仏像がところ狭しと立ち並び、うち12体が国宝、4体が重要文化財に指定され、14体が天平時代の造立である。これらの群像のかもし出す雰囲気は、観る人をしばし厳かな「ほとけたちの世界」にいざなう。
堂々たる体躯で悩める人々をどこまでも救いに赴こうとされている不空羂索観音像、端正な顔立ちで合掌し、透徹した美しさで人を魅了して止まない(伝)日光・月光岡菩薩像
法華堂内で役僧から仏像の説明を聞く一行
堂内の仏像について説明される僧侶に断って一枚だけフラッシュ無しで撮らせていただきました。何もみえないぐらい真っ黒な写真をソフトで明度修正しています。
僧侶の方は、懐中電灯を使って仏像の説明をされました。
下記の仏像写真は入場配布のパンフレットからのコピ−です。
執金剛神像(特別開扉12月16日)
哀愁の美をとどめる吉祥天像、髪を逆立て、忿怒の相もすさまじい金剛力士像、それぞれにほとけの世界を守ろうと多様な表情でたたずむ四天王像、それに東大寺創建以来今なお色あざやかに、金剛杵を振り上げ忿怒の相で仏敵より人々を守ろうとする秘仏執金剛神像など、天平彫刻の粋が集まっている
金剛力士像(吽形)
これらの諸仏のうち、どのお像が法華堂本来の安置仏であったかについては諸説があるが、およそ、当初の不空羂索観音像と執金剛神像に加え、おくれて梵天・帝釈、四天王、金剛力士の8体の仏像が合わせて祠られるようになったと考えられている。
月光菩薩像
日光・月光、弁財天・吉祥天の各像はもとは法華常になく、弁財天・吉祥天は天啓8年(954)に吉祥院が焼失した直後に、日光・月光は近世に移入されたとされている。なお本造の地蔵菩薩像は鎌倉時代に、不動明王像は室町時代に造立されたものである
東大寺三月堂:法華堂の仏像
1 国宝:不空羂索観音像 362.0 cm 乾漆造 天平時代
2 国宝:梵天像 402.0 cm 乾漆造 天平時代
3 国宝:帝釈天像 403.0 cm 乾漆造 天平時代
4 国宝:金剛力士像(吽形) 306.0 cm 乾漆造 天平時代
5 国宝:金剛力士像(阿形) 326.4 cm 乾漆造 天平時代
6 国宝:持国天像(四天王) 309.0 cm 乾漆造 天平時代
7 国宝:増長天像(四天王) 300.0 cm 乾漆造 天平時代
8 国宝:広目天像(四天王) 304.0 cm 乾漆造 天平時代
9 国宝:多聞天像(四天王) 310.0cm 乾漆造 天平時代
10 国宝:執金剛神像 170.4 cm 塑造 天平時代
11 国宝:(伝)日光菩薩像 207.2 cm 塑造 天平時代
12 国宝:(伝)月光菩薩像 204.8 cm 塑造 天平時代
13 重文:吉祥天像 202.0 cm 塑造 天平時代
14 重文:弁財天像 219.0cm 塑造 天平時代
15 重文:地蔵菩薩像 84.3 cm 木造 鎌倉室町
16 重文:不動明王像 86.5 cm 木造 鎌倉室町
以上法華堂のパンフレットより収録。法華堂内は撮影禁止です。
内部にはかの有名な透徹した美しさで人を魅了して止まない、日光・月光菩薩像(国宝・塑(そ)造)二像を初めとして、国宝の塑像には12月16日のみ特別開扉の秘仏「執(しゅ)金剛(こんごう)神像(しんぞう)」の三体と重文の吉祥天像、弁財天像二体、乾漆造の国宝では、不空羂索観音像、梵天像、帝釈天像、髪を逆立て、忿怒(ふんぬ)の相もすさまじい金剛力士(阿・吽)二体、四天王の持国天像、増長天像、広目天像、多聞天像の九体の国宝像が、更に鎌倉時代の木造の地蔵菩薩像、不動明王像の二体で国宝像十四体、重文像二体で合計16の像が祀られています。

注)乾漆(かんしつ)には塑像(そぞう)の原形に麻を漆(うるし)で貼り、塑土(そど)を取ってから漆に木(こ)粉(ふん)を混ぜたもので仕上げる脱活(だつかつ)乾漆と、木の心木へ漆に木粉を混ぜたもので仕上げる木心(もくしん)乾漆がある。天平時代に多く用いられた技法です。
綾部の文化財を守る会の会報61号より収録
二月堂山門をくぐって
心洗で心を清める
飯道神社
二月堂に吊られた提灯
脇祭壇に手を合わせる参拝者。お百度参り中?
二月堂の四方に祭壇が設けられ、回りながら参拝。数読みのの棒が置かれている
二月堂(国重文)
 法華堂の北側にある石段をゆっくり上ります。この二月堂の舞台から眺める夕日は素晴らしいものですが、昼間でも東大寺、奈良市外、遠くに信貴・生駒の連山が望めます。又、裏手・東側一帯は「若草山」ご承知の通り、一月十五日山焼きが行われます。又、本尊様は絶対秘仏の「十一面観音」様で、三月の修二会(しゅにえ)(お水取り)で有名で、このお水は平成12年の春の研修旅行で見学した、若狭小浜の神宮寺の「鵜の瀬(うのせ)」からはるばるこの東大寺の二月堂の下の「若狭井」へ運ばれ、この神事に使われます。
 この時、二月堂では「籠松明」等が使われ、まるで火事が起こったような状況がよくテレビで見ます。
二月堂参拝
お水取りで有名な二月堂が国宝に昇格しました。
文化審議会答申、東大寺で8件目
文化審議会は28日お水取り(修二会)で知られる東大寺二月堂を国宝に指定するように中山文部科学相に答申した。二月堂は大仏殿東側の高台にあり、斜面に築かれた懸造(かけづくり)が目を惹く、小規模だった堂が、修二会に合わせて拡張されてきたことを示す特異な建築として評価された。寛文七(1667)年に焼失、同九(1669)年に再建されたのが現在の建物で、本尊の十一面観音は秘仏となっている。これで東大寺の国宝建築は、大仏殿や法華堂、南大門、転外門など8件、8棟となる。
二月堂祭壇テラスより、東大寺大仏殿、遠く奈良市街まで展望する。
同じく近くの境内建造物を展望。
二月堂の四面にある「お百度巡り祭壇:裏側」は、ろうそくの明かりの下で
読経が行われていた。まっくらでストロボ撮影不可、ASA200から明度修正処理
二月堂の斜面に築かれた懸造(かけづくり)。斜光が入っているが長い階段から撮影。

お水取り:お水取りは正しくは修二会(しゅうにえ)(修二月会)といい、インドの正月にあたる2月に仏の供養をしたことから、この名が生まれたともいうが,現在は新暦により、毎年3月1日から14日にかけて盛大に行われている。
二月堂の本尊である十一面観音に自らの過ちを懺悔して,天下泰平・万民豊楽を祈る法要である。
このお水取りは,奈良時代の憎実忠によって始められたとされる。あるとき山城国笠置山の洞窟で、弥勒菩薩の浄土に遊び,十一面悔過(げか)の法に感激した実忠和尚が、752 (天平勝宝4)年2月1日,二月堂に十一面観音を迎えて法要を行った。以来1200年余,一度も欠かさずに続けられてきた。
 十一面悔過法要を行う11人の練行衆は,2月20日から戒壇院にしつらえた別火防で前行に入り,本尊に供えるツバキの花ごしらえ,紙衣(かみご)づくりや声明の稽古をして本行の準備をする。本行は3月1日からで,二月堂下の参籠所に入り,正午から夜の零時まで日中・初夜・日没・半夜・後夜・晨朝の6回「六時の行法」という荒行を毎日行う。
その間,夜の行法に上堂する練行衆を導くのが大松明である。お水取りの行法が行われる3月12日の松明は特に大きく,夜7時頃から二月堂の欄干で大の粉をふるうさまはまさに壮観である。無病息災を願う人々が火の粉を求めてひしめきあう。
 この12日の深夜,正確には13日の午前2時頃お水取りが行われ,若狭井(闘伽井屋(あかいや,国重文)から本尊に供える香水がくみあげられる。この水は若狭国(現福井県)小浜の遠敷(おじゅう)神社から水送りされたもので,3月2日夜に遠敷神社の下を流れる遠敷川では「お水送り」の式が行われている。なお12日から14日までの深夜,二月堂の内陣ではホラ貝と錫杖の音が鳴り響くなか、松明の火が激しく乱舞する達陀(だったん)の妙法が繰り広げられる。こうして火と水の祭典ともいうべき修二会は終りを告げ,奈良には穏やかな春がやってくる。(バス内研修資料から抜粋)
街路から二月堂など
二月堂からゆっくりと階段を下って行くと、所謂「裏参道」ですが、此処は大変おもむき趣があります。途中の左側に「大湯屋」(国重文)が見えてきます。創建はさだかでは有りませんが、現在の建物は室町時代の形式で中世の浴室の遺構として貴重であります。
東大寺大仏殿の大屋根
大仏殿横の参道を歩き正面に回る
大仏殿裏側を通りますが、1300年前、この北側の芝生のあとには「大講堂」や、およそ100メートルもあった七重の東塔や西塔がそびえていたことを想像してみてください。1300年前の当時は素晴らしいものだったことでしょう。
時間の都合で私達は、ここから東大寺の正面の「鏡池」の横を通り、再び中門に引き返します
世界文化遺産登録「東大寺・興福寺」と言いますと、奈良はシルクロードの終着地とも言われ、私にとっては、すぐにスタートと云われるイタリアの首都ローマやトルコの東西文化の交差点とも言われるイスタンブールのトプカピ宮殿(現・博物館)に展示されている巨大な(高さ1メートル以上)の一対の古伊万里焼の素晴らしい壺を思い出します。
 ラクダの背によって運ばれたものか、それとも海のシルクロードを船で運ばれたかは知りませんけれど奈良はそういう文化財を持つ”国宝の山“です。
 又、昭和63年(1988)平城京跡で、天武天皇の第七子、たけち高市のみこ皇子の第一皇子のながや長屋おう王邸宅跡が発見されました。長屋王は右大臣を経て神亀元年(724)に左大臣に就任し、皇臣を代表し藤原氏の勢力に対抗したが、天平元年(729)に「左道」を学び国家を傾ける危険人物と密告され自殺に追い込まれました。これは藤原の陰謀と云われ、犠牲となった人物の邸宅が初めて確認されたのです。
 十数万点という木簡等が発見され、その内、綾部資料館ではビジュアルで見れる高津里(今の高津町)から鮎の干物が長屋王邸宅へ運ばれたことが判る木簡も発見され「木簡の旅」として常時無料で見学(除く月曜日)できます。
東大寺「南大門横の駐車場」で現地のボランテアガイドさんが待っておられ、ここから見学にスタートです。1300年の昔にタイムスリップして、さあ、見学開始です。
 此処には書ききれませんので、ご参加者には当日「古代皇室系図」「現地地図」「古都奈良の歴史概略」等の資料を差し上げます。
「綾部市文化協会後援」第11回秋の文化財・史跡学習会のご案内:事務局 四方續夫−見学場所の案内より−
私(注:四方事務局長)は、仕事柄インド・ネパール、アフガニスタン、ボルブドール、アンコールワット、ベトナム、ビルマ、タイ、中国等多数の仏跡めぐりに行ってきましたが、ご承知の通り仏教はインド(今のネパール)で生まれました。
 十二月の冬でも日中は40度を越える温度、夜はマイナスになり凍死者が出る。一日にして、朝は春、昼は夏、夕方は秋そして夜は冬。一日にして春夏秋冬を経験できます。なぜか、世界三大宗教の仏教、キリスト教、回教のみならず、他の有名な宗教は生きるのに非常に過酷な地で起こっています。
写真:東大寺中門
東大寺(華厳宗総本山)の略歴
 奈良、春日山の西麓に建つ東大寺は、盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とする華厳宗(けごんしゅう)の総本山。
 仏教を中心とする国造りを進めた聖武天皇の発願で、総国分寺として創建。
 大仏建立は国力を傾けた一大プロジェクトでした。その背景には、皇太子もとい基親王の病死をはじめとして、当時の世上は、政治の中枢を占めていた藤原(なかとみ中臣)かまたり鎌足の第二子のふひと不比等の子供、南家・北家・武家・京家の四兄弟の病死や、疫病の流行、全国的な飢餓の広がりがありました。
 又、幸いにも奥州で砂金が見つかり、大量の砂金が大仏の塗金のため寄贈されたとも言われています。
 天平勝宝四年(752)、開眼法要が盛大に営まれました。治承四年(1180)、平重盛の南都焼き討ちで大半の堂塔を焼失したが、すぐにじゅうげん重源の勧進で復興。
 しかし、永禄十年(1567)に松永久秀の兵火で再消失。
 江戸中期の元禄五年(1692)になって五代将軍綱吉の母・桂昌院を動ごかし幕府の多大な援助を引き出し、大仏開眼をしたのは大和出身の僧・隆光でした。
この境内には数得れないほどの国宝があります。例として、南大門とその仁王像・大仏殿と大仏・鐘楼・三月堂(法華堂)と内部の十二の像などであります。
大仏殿(国宝)
 東大寺の金堂である。二度兵火に遭い江戸時代に再建されたが、天平・鎌倉時代の大仏殿は十一間であったが、財政困難で今は七間であるが、それでも世界最大の木造建築物である。東西57.012、南北50.48、高さ48.742メートルである。
東大寺大仏殿への廊下を行く。ご先導いただくのは、
東大寺宝珠院々長兼勧学院々長:佐保山堯春師
宝珠院々長兼勧学院々長:佐保山堯春師から東大寺の説明を拝聴する。
佐保山堯春師を囲んで
佐保山堯春師を囲んで拝聴
盧舎那仏(るしゃなぶつ)(国宝)
大仏様は正しくは毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)と云いその意味は、知恵と慈悲の光明を遍く(あまねく)照らし出されている仏ということである。
インドのカピラ城(今のネパール)に生まれた釈尊は29歳のときに出家され、以後6年間難行苦行を重ね、ついに尼連(にれん)禅(ぜん)河(げ)のほとりの菩提樹下で大いなる宗教体験を得られた。「大方広仏華厳経」は時間と空間を超えたほとけとなられたその瞬間の釈尊の姿を描いたお経で、偉大で、正しく、広大なほとけの世界を、菩薩のさまざまな実践の華(はな)によって飾ることを説いている。このお経によれば、鳥の声、花の色、水の流れ、雲の姿すべて生きとし生けるものを救おうとするビルシャナ仏の説法であり、大仏尊像の台座の周りの蓮弁には「蓮華蔵世界」と呼ばれている毛彫図が刻まれ、「華厳経」の説く「悟りの世界」を絵に表している。
尊像 像高:14.98m、目長:1.02m、耳長:2.54m、顔長:5.33m、鼻高:0.5m、台座3.05mです。
大仏殿祭壇前の雑踏
盧舎那仏(るしゃなぶつ)(国宝)
赤仏を参拝する人
宝珠院々長兼勧学院々長:佐保山堯春師から、盧舎那仏(るしゃなぶつ)の座っておられる巨大な蓮弁座の説明を受ける。
大仏尊像の台座の周りの蓮弁には「蓮華蔵世界」と呼ばれている毛彫図が刻まれ、「華厳経」の説く「悟りの世界」を絵に表している
「蓮華蔵世界」大仏の説明
宝珠院々長兼勧学院々長:佐保山堯春師から「蓮華蔵世界」と大仏の説明を受ける
如意輪観音菩薩像(にょいりんかんのんぼさつ)
江戸時代の木造で、大仏の左脇(正面から見ると右側)にあります。煩悩を打ち砕く法輪を持つものとされ、衆生に利益を与える菩薩であると言われています。
虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
江戸時代の木造で、大仏右脇(正面から見ると左側)にあります。虚空蔵とは広大無辺の功徳が虚空のように大きく壊れることがないという意味です。この菩薩を念じれば記憶力が増すと考えられ、特に知恵を授ける仏として信仰されるようになりました。
多聞天像
江戸時代の木造で、大仏殿内の東北隅にあります。四天王の一つで、北方を守っています。左手に矛を持ち、右手で仏塔を捧げています。
広目天像
江戸時代の木造で、大仏殿内の西北隅にあります。四天王のうち西方を守る神で、筆と経巻を持っています。
仏像
八角灯籠(国宝)
境内に入ると巨大な大仏殿が目に付く。此処から更に大仏殿の前に行くと、巨大な金銅の八角灯籠がある、高さ4.6メートルもあり、この灯籠は東大寺創建当時のものとされ、その後、多少手を加えているが天平時代の金工技術と工芸意匠の素晴らしさを現代に伝えている。非常に大きな火袋が特徴で東西南北の四面には両開きの扉に雲中を走る唐獅子と他の四面には優美な音声(おんじょう)菩薩(ぼさつ)の浮彫が見られる。
音声菩薩(おんじょうぼさつ)
大仏殿の前に金銅八角燈籠(こんどうはっかくとうろう)があります。音声菩薩(おんじょうぼさつ)という天女像をすかし彫りにしたものが、この燈籠の火ぶくろの扉に表現されています。国宝にふさわしい優れた工芸品といえます
金銅八角燈籠
高さ4.6メートルもありこの灯籠は東大寺創建当時のものとされ、その後、多少手を加えているが天平時代の金工技術と工芸意匠の素晴らしさを現代に伝えている。非常に大きな火袋が特徴で東西南北の四面には両開きの扉に雲中を走る唐獅子と他の四面には優美な音声(おんじょう)菩薩(ぼさつ)の浮彫が見られる。
中門から回廊を通り出口に向かう
園児たちが順番に鹿に「シカセンベイ」を食べさせていた。先生の世話で列を作り、食べさせ終わると、列の後ろに回って並び何回も楽しんでいる。
参道横に並ぶお土産やさん
南大門のそばも賑やかに色とりどりのお土産が並んでいる
おしゃべりしながら買いものを楽しんでいる
東大寺南大門(国宝)と金剛力士像(国宝)
 天平勝宝四年(752)に創建された東大寺の正面で、十二世紀後半の台風による倒壊や治承の兵火を得て、重源上人が宋の技術を導入してつくらせた、いわゆる「大仏様式」の代表的な建物で重層入母屋造りの五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造である。又、屋根裏まで達する大円柱18本は21メートル、基壇上20.46メートルに達する我が国最大の山門である。
 この門の中には東西相対し、阿吽(あうん)一対の金剛力士像(仁王)が安置されている阿形は8.43メートル、吽形は8.36メートルもある巨大なヒノキ材の寄木造りの工法でつくられた木造である。
 又、この像は鎌倉初期・建仁三年(1203)に運慶や快慶ら仏師たちによってわずか69日で造像されたと云う。
バスの中でこの金剛力士像の解体修理の様子。専門的な知識と技術、果敢な決断によって修復された感動の修理をビデオで研修してきた。
南大門両端の北側の阿形二体の「石造獅子」は共に国重文です
尚、東大寺には国宝の「戒壇院」国名勝の「依水園」や「正倉院(国宝)」は外側のみ見学可能であります。正倉院の西方に「転害門(国宝)」もあります。
 午後の自由行動時間で「戒壇院」は入場料500円で中には「四天王像(国宝)」があり、見学に行ってこれます。