世界文化遺産登録 賀茂御祖神社(下鴨神社)

綾部の文化財を守る会 「京都の国宝を訪ねて」研修記3  東寺  上賀茂神社     HP:綾部の文化財へ

河合神社 下鴨神社の摂社
祭神 玉依姫命 祭神は神武天皇の御母神
例祭日 十一月十五日
神徳 神武天皇とともに御母神として日本の建国に貢献された内助の御神徳は、日本婦人の鑑とも仰がれており、安産、育児、縁結び、学業、延命長寿の守護神として広く知られている。
由緒 鎮座の年代は不詳であるが、神武天皇の御代から余り遠くない時代と伝えられている。「延喜式」に鴨河合・・(駒札より集録)
参観の綾部の文化財を守る会一行
河合神社の参観
参観の一行
糺の杜(ただすのもり)の名所
(摂末社(せつまつしゃ)など

河合(かわい)神社と鴨長明(かものちょうめい)
 玉依媛命(たまよりひめのみこと)(初代の天皇・
神式天皇の御母神、本宮のご祭神とは同名異神)
をまつっています。古くから本宮に次ぐ大社として
歴史に登場し、女性の守護神として信仰されています。
 『方丈記』の著者、鴨長明はこの河合神社の
神官の家に生まれましたが、いろいろの事情によって、
この重職を継ぐことができませんでした。
 このこと方ら強い厭世観を抱くようになり、
やがて『方丈記』を書くにいたったといわれています。
復元された方丈が現在展示されています。
 末社には任部社(とべしゃ)とよび八咫烏
(やたのからす)をまつるお社があり、
昭和六年(1931)日本サッカー協会設立時より
現在のJリーグにいたるまで、ご祭神の姿を
シンボルマークとしています

(入場パンフレットより集録)
鴨 長明
久寿二年(1155)下鴨神社禰宜長継の次男として泉の館(現在の京都大学北方一帯)において生まれた。応保元年(1161)七歳のとき下鴨神社の第六回遷宮が行われ、長明も神職の道につき、従五位下に叙せられた。幼少から学問に秀で特に歌道に優れていた。安元元年(1175)二十一歳、高松女院歌合わせに和歌を献じて注目を集めた。治承四年(1180)六月、二十六歳のときには、福原へ都が遷され、宮中に奉仕する長明も新都に赴いたが、八月源の頼朝の反乱により平家は滅亡し、再び平安京に遷都され帰洛した。
正治二年(1200)四十六歳のとき、後鳥羽院から召されて院の歌会や催しに和歌を献じることになった。翌建仁元年(1201)和歌所の寄人に任ぜられた。また琵琶や笛、琴にもたけた演奏の記録が随所にみえる。しかし、元久元年(1204)五十歳の春、宮中の席を辞して出家し、洛北大原に隠とんする。元久二年三月「新古今和歌集」
石川や 瀬見の小川の清ければ 月も流れを たずねてやすむ
をはじめ十首が採録された。「瀬見の小川」とは、この河合神社の東を今も流れる川のことである。建暦二年(1212)三月「方丈記」についで「無名抄」を著した。建保四年(1216)閏六月八日、六十二歳で没した。

長明の方丈
鴨長明は、五十歳のとき、すべての公職から身をひき大原に隠とんした。その後、世の無常と人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である。大原からほうぼう転々として、承元二年(1208)五十八歳のころ(現在京都市伏見区日野町)に落ち着いた。各地を移動しているあいだに「栖(すみか)」として仕上げたのが、この方丈である。移動に便利なようにすべて組立式となっている。広さは一丈(約三メ−トル)四方、約2.73坪、畳、約五畳半程度、間口、奥行きとも一丈四方というところから「方丈」の名がある。さらにもう一つの特徴は、土台上のものが置かれ、その上に柱が立てられていることである。下鴨神社の本殿もまた、土居桁の構造である。この構造は建物の移動ということを念頭に柱が構築されるからである。下鴨神社は式年遷宮により二十一年ごとに社殿が造替される自在な建築様式にヒントを得たものといわれている。(駒札から集録)
参拝する会員
要文化財申請社殿:貴布禰神社(きふねじんじゃ)
御祭神 高?神(たかおかのかみ)
天地に恵みを与える雨をつかさどり、祈雨・止雨に霊験あらたかな神様です
応保元年(1161)収録の「神殿屋舎等之事」に、河合神社の御垣内にまつられていたことが収載されている神社で、水の神として有名。
重要文化財申請社殿
任部社(とうべのやしろ)古名:専女社(とうめのやしろ)
御祭神 八咫烏命(やたがらすのみこと)
神武天皇を勝利に導いた神様は、サッカ−教会のシンボルマ−クに描かれている事で有名です。
河合神社創祀のときよりまつられている社である。古名の専女とは、稲女とも書き食物を司る神々がまつられていたことを示している。のちに「百練抄」安元元年(1157)十月二十六日の条にある「小烏社」と合祀された。
昭和六年(1931)御祭神の八咫烏命が、日本の国土を開拓した神の象徴として日本サッカ−ボ−ル協会のシンボルマ−クとなって以来、サッカ−必勝の守護神として有名である。
重要文化財申請社殿
三井社(みついしゃ)別名:三塚社
中社 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
西社 伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)
東社 玉依媛賣命’たまよりひめのみこと)
古い時代の下賀茂神社は、古代山城国、愛宕(おたぎ)、葛野郷(かづぬごう)を領有していた。その里には下鴨神社の分霊社がまつられていた。この社は、鴨社蓼倉郷(たてくらごう)の総(祖)社としてまつられていた神社である。摂社三井神社「風土記」山城国逸文(やましろのくにいつぶん)「鴨社」の条の「蓼倉里(たてくらのさと)三身社」とは別の社である
鴨河合坐小宅神社(かものかわあいにますおこそやけのじんじゃ)
御祭神 玉依媛賣命’たまよりひめのみこと)日本国を建てられた神武天皇の母神様は、子供の成長をお守りくださいます
展示館
下鴨神社の摂社、末社、方丈記の作者:鴨長命が住んでいた方丈などを拝観して回る会員の一行
三井社(みついしゃ)
御祭神:賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)
玉依媛賣命’たまよりひめのみこと)
姫神様とそんp御両親をお祀りしたお社は、家族の平安を守ってくださる神様です
この鳥居をくぐり「瀬見(せみ)の小川」沿いにつづく「糺の杜」の参道に入る
枯れた御神木が祀られている
舟がおかれたお社
下鴨神社大鳥居
下鴨神社楼門の前で記念撮影 バス1号車36名、京都SKY観光ガイド協会:藤木和夫様、京都交通バスガイドさん
バス2号車41名、京都SKY観光ガイド:奥田不美男さま、京都交通バスガイドさん
上賀茂神社の研修を終えたときは、時ならぬ北山時雨に見舞われ、河合神社に向かうバス中では可成りの降りであったが、到着前には止みほっとした。三カ所目の記念撮影については、東寺、上賀茂神社のがあり、雨で省略しようと四方事務局長と相談していたが、やはり万一の失敗を考えて撮影した。参加者には2枚の約束での研修旅行である。記念写真がピントが背景に合い(塔や楼門など高い背景を撮るので、人列が写真下部となる、三脚撮影でも人列にピントを合わせて撮る器用さが本当は必要。まだまだ私の経験不足である)東寺と上賀茂神社の撮影は、すこしピントが甘かった。反省!それにしても写真は難しい!
下鴨神社楼門
御手洗川、橋殿周辺
世界文化遺産 賀茂御祖神社(下鴨神社)
賀茂御祖神社社務所発行の入場パンフレットより集録
表紙写真・四季の行事写真:横山健蔵氏
歴史・創祀
 当神社がまつられたのは、崇神天皇の二年(BC2)に
神社の瑞垣の修造がおこなわれかという記録があり、
それ以前の古い時代からまつられていたとおもわれます。
先年糺の杜(ただすのもり)周辺の発掘調査で弥生時代の
住居跡や土器がたくさん発掘され、それを裏付けています。
また社伝や歴史書に、お祭、、社殿、ご神宝の奉納などが
記録されています。「続日本記」の文武天皇二年(698)には、
葵祭に見物人がたくさん巣まるので警備するように命令が
出された、という記事があります。このことから奈良時代より
前から当神が大きなお社で、盛大なお祭がおこなわれていた
ことがわかります。
 平安時代には、国と首都京都の守り神として、また皇室の
氏神さまとして、特別の信仰を受け、別頂に記します
式年遷宮(しきねんせんぐう)や斎王(さいおう・いつきのみや)
の制度などがさだめられていた特別な神社であったことがしられます。
そして 「源氏物語」や「枕草子」など王朝文学にしばしば登場いたします
ように、この時代の文化、宗教の中心地の一つとして栄えました。
 平安侍代末期になりますと全国に六十余箇所もの荘園、御厨(みくりや)
が寄進され神社をささえました。
 鎌倉時代、室町時代、そして戦乱の世になっていくにつれ、
各地の荘園も連絡が次第に絶えて行きすが、代わって国民の信仰が
神社をささえていくようになりました。神殿守(殿司・どす)とよぱれる
人々が全国をまわって、ご神徳を説いていくのもこのころです。
当神社を舞台とする、数多くの能(謡曲)などに、そのころの様子が
うかがわれます。また国の重要な出来事には、かならずご祈願が
おこなわれました。
 江戸時代にも国と国民の幸福を祈願する神社として、神社の運営の
ため幕府より領地が寄せられました。
 明治初年、全国の神社の代表として、官弊大社(かんぺいたいしゃ)の
首位におかれ、今日まで国と国民のための祈願を日々おこなっています。
(詳しくは、神社発行の「賀茂御祖神社略史」をごらん下さい)
御祭神とご神徳
 正式には「賀茂御祖(かものみおや)神社」とよぼます。京都は鴨川を中心に町づくりがなされており、鴨川の下流にまつられているお杜というところから「下鴨(しもがも)さん」とか、「下鴨神社」と親しくよげれています。
 東西の二殿の本殿はともに国宝です。
 玉依媛命(たまよりひめのみこと)東殿
 資茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)西殿

 資茂建角身命は、古代の京都をひらかれた神さまです 山城の国一宮として京邱の守護神としてまつられています。平安京が造営されるにあたって、まず当神社に成功の祈願が行われました。以来、国民の平安をご祈願する神社と定められました.
 出雲国「風土記」などに、玉依媛命が鴨川で禊(みそぎ)(身を清める儀式)をされているときに上流より流れ来た丹塗り(にぬり)の矢を拾われて床におかれたところ、矢は美しい男神になられ、結婚された。そしてお子をお生みになったとの神話が伝えられていますので、古くから縁結、子育ての神さまとして信仰されています。
 当神社は、国家国民の安穏と世界平和をご祈願する守護神であるとともに、厄除、縁結、安産、子育、交通安全など人々の暮らしを守る神さまです
舞殿 重要文化財
賀茂祭(葵祭)のとき勅使が御祭文を奏上され、東遊(あずまあそび)が奉納される。御所が災害にあわれたとき、臨時の内侍所と定められている。式年遷宮寛永五年度(1628)造替後は二十一年目ごとに解体修理が行われる。入母屋造、檜皮葺、桁行四間、梁間三間、殿上は宣命座の設置など、柱間ごとに細かく規定されている(駒札より)
神服殿(しんぷくでん)重要文化財
夏、冬の御神服を奉製する御殿であったため、その名がある。古代祭祀の神殿様式を伝える貴重な社殿である。近世は、勅使殿または到着殿となり、古来殿内の一室が行幸の時は玉座となった。「明けずの間」として伝えられている。古くから御所が災害にあわれたとき、臨時の御座所と定められている。式年遷宮寛永五年度(1628)造替後は二十一年目ごとに解体修理が行われる。入母屋造、檜皮葺、桁行五間、梁間四間(駒札より)
本殿・言社などの並ぶ構内に入門
東本殿・西本殿(国宝)を参拝する一行
下鴨神社の歴史
 当神社の創祀は紀元前に遡り、崇神天皇七年(BC90)には、早くも朝廷によって瑞垣が造替され、欽明天皇五年(AD544)に賀茂祭(葵まつり)が始められるなど、古くから大社としてまつられ、「山城国一の宮」と仰がれてきました。弘仁元年(810)「葵まつりの斎王代」で知られる「賀茂斎院の制」がさだめられ、皇女が当神社の年内祭事を奉仕されていました。嵯峨天皇の皇女・有智子内親王以来三十五代、約四百年問続きました。今回はじめて公開する大炊殿は、賀茂斎院御所の宮城の社殿です。 延暦十三年(794)、十二月二十一日、平安京の遷都にあたって、桓武天皇が御親斎されたのを始めとして、歴代の天皇・皇族方の御参拝は数知れず、平成六年十一月八日には、天皇・皇后両陛下がお揃いで御親拝になりました。その他日本の歴史の中で、数々の事項を知ることができます(入場パンフレットより)
一言社(ひとことしゃ)巳・未歳生まれの守護神を祀る
言社(ことしゃ)(えとの守り神)(重要文化財)
一言社(ひとことしゃ)(東社)大国魂神(おおくにたまのかみ)巳、未歳生まれの人の守護神
一言社(ひとことしゃ)(西社)顕国魂神(うつしくにたまのかみ)午歳生まれの人の守護神
二言社(ふたことしゃ)(北社)大国主神(おおくにぬしなかみ)子歳生まれの人の守護神
二言社(ふたことしゃ)(南社)大物主神(おおものぬしのかみ)丑、亥歳生まれの人の守護神
三言社(みことしゃ)(北社)志固男神(しこおのかみ)卯、酉歳生まれの人の守護神
三言社(みことしゃ)(中社)大己貴神(おおなむちのかみ)寅、戌歳生まれの人の守護神
三言社(みことしゃ)(南社)八千矛神(やちほこのかみ)辰、申歳生まれの人の守護神
 大国主命はお働きによりお名前を七つおもちで、お名前ごとに神社がまつられています。それぞれが十二支の生まれ年の守り神さまとして、また商売繁盛、事業繁栄の神さまとしても信仰されています。 一月成人の日には、初大国えとまつり、十月九日には秋祭がおこなわれ、たくさんのお詣りがあります。(大国会会員を募集しています。社務所までお問い合せ下さい。)
三言社(みことしゃ)卯・酉歳、寅・戌歳、辰・申歳生まれの守護神を祀る
二言社(ふたことしゃ)子歳、丑・亥歳生まれの守護神を祀る
言社に参拝
三井社境内に入る一行
三井神社(重要文化財)
 本宮の若宮(わかみや:若々しいご神霊)としての信仰があり、賀茂建角身命、玉依媛命、伊賀古夜媛命(いがこやひめのみこと)の三神がまつられています。 末社には葵祭の斎王さまで知られる初代有智子内親王(うちこないしんのう:平安時代の嵯峨(さが)天皇の皇女)から第三十五代礼子(いやこ)内親王(鎌倉時代の後鳥羽(ごとば)天皇の皇女)まで、歴代斎王のご神霊をまつるお社。けまりの神さまをまつるお社などが有名です。
三井(みつい)神社 江戸時代 寛永五年建替 重要文化財
中社 建角身命(たけつぬみのみこと)
東社 伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)
西社 玉依媛賣命(たまよりひめのみこと)
「風土記」山城国逸文(やましろのくにいつぶん)に蓼倉里(たてくらのさと)三身社、延喜式(えんきしき)三井ノ神社(みいのかみのやしろ)とある神社です。奈良時代から平安時代にかけて、このあたり一帯を蓼倉郷(たてくらごう)と呼ばれていました。三身社とは、本宮の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とその妻、伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)、その子、玉依媛賣命(たまよりひめのみこと)のことであり、三神がまつられています
諏訪社(すわのやしろ) (重要文化財)
建御方神(たけみなかたのかみ)
・神代の昔、力比べを挑まれた勇猛果敢な神様は、勇気と力を与えてくださります。

小杜社(こもりのやしろ) (重要文化財)
水分神(みくまりのかみ)
・生活に欠かすことのできない水をつかさどる神様です。

白髯社(しらひげのやしろ) (重要文化財)
大伊乃伎命(おおいのきのみこと)別名、猿田彦命(さるたひこのみこと)
・導きの神様は、人生の指針をお教えくださいます。

斎王神霊社(さいおうしんれいしゃ)歴代斎王神霊>
白髯社に合祀されています。・賀茂社に仕えた歴代斎王をおまつりしたお社は、女性守護の神様です。平安時代の当神社社頭絵図(しゃとうえず)「鴨社古図」に描かれている各社の位置と現在なおかわりなく、糺の森の禁足地を背景とする古代の神社の構えを伝える貴重な神社です。また舞殿(まいどの)をはじめ棟門(とうもん)などすべてが重要文化財です。
三井社境内で説明中の京都SKY観光ガイド協会ガイドさま
白鬚社合祀(前方の末社)賀茂斎院歴代斎王神霊社
葵祭でしられている斎王は、弘仁元年(810)嵯峨天皇の皇女、有智子親王(うちこしんのう)を初代として斎院(さいいん)の制が定められました。以降後鳥羽天皇の皇女、禮子内親王(いやこないしんのう)の建暦二年(1212)御退位になるまで、約四百年間、三十五代にわたって葵祭などの祭祀を御奉仕になられました。「源氏物語」や「枕草子」などの華やかで優雅な姿を現在に葵祭の斎王として伝えています。神霊社はもと当所より西方一帯に所在した賀茂斎院御所にまつられていたところ、文明の乱(1407)により社殿が焼亡したため、糺の森の鴨社神宮寺境内へ御動座になっていましたが、大正十年この社に合祭されました。
ガイドさんの説明を腰掛けて聞く一行
葵の庭(カリンの庭)
忘れめや あふいを草に ひき結び かりねののべの つゆの曙(あけぼの)
第三十一代斎王式子内親王 新古今和歌集
賀茂斎院御所のアオイの自生する「葵の庭」をお詠みになった。文明の乱の兵火により殿舎が退転したが、庭はここに再顕された。大炊で調整される御薬酒用薬草も植栽されており、特にカリンの古木が有名で「カリンの庭」ともよばれている。(駒札より)
カリン バラ科
カリンは、鎮咳に有効で、のど飴の成分にも使われています。またカリン酒も疲労回復に効き目があります
カリンの古木
日に照らされて輝くカリンの葉
主な薬用栽培植物の写真入り説明板
フタバアオイ ウマニスズクサ科
フタバアオイは、葉は薄く、冬落葉し、花は4〜5月に咲きます。カモアオイとも言われ、当神社の紋となっています
葵の庭(カリンの庭)
「文明の乱」によって焼失した賀茂斎院御所には双葉葵の自生する「葵の庭」があり、この庭が大炊殿の周りに再興された時にカリンヌルデ・クチナシ・カツラ・ヤマウコギなど御薬酒用の薬草本も栽培されるようになりました。なかでもカリンの古本が有名となって「カリンの庭」とも呼ばれています。
御井(みい)重要文化財
寛永五年(1624江戸前期)の造替。上屋を井戸屋、井筒を井戸屋形といいます。正月の「若水神事」をはじめ、神饌料理の御水に用いられました。井戸屋の前に「水ごしらえ場」があります。式内社 末刀社(まとのやしろ)の神が御降臨されるところとの伝承があり、御降臨石に御水桶を置いて神事を行います
こちらは蕗?
イカリソウ メギ科
イカリソウは、特に健忘症等に効果があります。また強壮、強精に毎日服用すると良いといわれています
シャクヤク キンポウゲ科
シャクヤクは、腹痛、胃けいれん等の鎮痛、止痛剤として効果があるほか、婦人病の治療に用います
ユキノシタ ユキノシタ科
ユキノシタは、解熱の効果があり、生の葉の汁を耳疾に外用するほか、咳止めに煎じたものを用います
ユキノシタの葉
下鴨神社・大炊殿の薬草園を参観しています
ばらも薬草になるのだ?! あるいは皇族方のお見舞いの切り花用?
奥の間の台盤と配膳棚(資料展示)
大炊殿(おおいどの)重要文化財
寛永五年(1624・江戸前期)の造替。大炊所(おおいどころ)とも呼ばれています。神饌(御供えもの)を調理する社殿で、主にご飯やお餅などの穀物類を調理し、魚鳥類は別棟の贄殿(にえどの)(現在は供御所の一間)で調理するならわしになっていました。
 大炊殿は、平安時代の「鴨社古図」にも描かれている歴史的な建造物です。入口の土間には竈(おくどさん)があり、中の間は台所になっており、流し台・用具類・御神料(神饌の材料)などを置きます。ここには「大炊殿の神」がまつってあり、調理をはじめるまえに御祓いが行われます。奥の間は、調理した御神料を盛り付けたり、御神前へお供えする順に配膳棚にならべておく所です。
 神社建築のなかでこの種の社殿が現存するのは非常にまれで貴重な社殿です
大炊殿:中の間の展示物
大炊殿・土間
近江八幡宮、賀茂神社奉納捲懸稲と読める稲束がかけられている
おくどさん水おけ
水ごしらえ場
若水神事をはじめ御水の祭事が行われる所。またこの岩は、式内末刀社(まとのやしろ・水の神)の御祭神が御降臨になる磐座(いわくら)との伝承があり、とよばれている
賀茂斎院旧跡(大炊殿)見取り図
流し雛
みたらし団子
薬酒つぼ
御薬酒
御薬酒の神事
賀茂祭御幣物
5月15日賀茂祭に際し天皇陛下からお供えされた御幣物です。
幣物とは、一般的には神様へのお供えの総称ですが、賀茂祭では、平安時代さながらに、あざやかな五色の絹・麻布・麻苧・絹糸・木綿糸などが柳筥に納められ、天皇陛下の思し召しを体された勅使が御神前にお供えになります。賀茂祭は、石清水八幡宮の石清水祭、春日大社の春日祭とともに、日本三大勅使祭とよばれています。当神社の場合、御祭神が二柱のため、毎年二座分を御奉納になられます
神饌お料理膳
斎串(いぐし)
竹串にテ−プ状の細紙を七廻り半、巻いたおの。これは自祓用の祓具で、みずから左・右・左と祓い、フッと息を一吹きし、その斎串を二つに折り、みたらし川に流すのがしきたりである
勅使祓具一式
小麻をはじめ、人形(ひとがた)・玄米(げんまい)・切麻(きりぬさ)・解縄(ときなわ)で構成される祓具。賀茂祭に際し鳥居内の祓幄(はらいあく)で、勅使みずからお祓いをおつとめされる。人形など陰陽道系の祓具と考えられる
江戸時代の足付け神事
糺の杜の名所(摂・末社など)と四季の行事
賀茂御祖神社(下鴨神社)入場パンフレットより
写真:横山健蔵氏(*印を除く)
十二単衣(じゅうにひとえ)の着付けと
王朝舞(ぎょくちょうまい)

 当神社は、葵祭の斎王代の十二単衣に
代表される王朝文化を現在に伝えています。
この王朝文化を紹介するため、十二単衣の
着付けと舞を公問しています。ご希望により
随時公開しています。
社務所までお問い合わせ下さい
新緑と葵祭(五月)
糺の杜がいちばん美しいと言われる若葉の季節、五月には葵祭が行われます。
 行事は、三日の流鏑馬神事からはじまります。平安時代の騎射の伝統により公家装束で行われ、普通の流鏑馬とは趣を異にします。新緑の馬場で人馬一体の妙技が繰り広げられます。五日には武家装束による歩射神事もおこなわれます。
 そのころ、斎王代禊の儀がみたらし川の畔で行われます。当神社には、古来「斎王」と呼ばれる特別な制度がありました。ときの天皇の内親王が、当神社の神事に奉仕される制度です。現在もその伝統を継承し、葵祭には市民の中から、その代りの「斎王代」が選ばれます。禊の儀は葵祭に先立ち、十二単衣姿の斎王代が身を清める儀式です、女官役の女性たちも、きらびやかな平安時代の衣裳の姿で参加します。
 十二日に御蔭祭(みかげまつり)がおこなわれます。東山三十六峰二番目の御蔭山に鎮座の御蔭神社から、本社のご祭神の荒魂(あらみたま)(新しい年を迎えて若々しいおちからをもたれた神霊のこと)をお迎えする行事で、平安時代の衣裳をつけた百数十人のお迎えの行列は、日本最古の神幸列といわれています。途中、糺の杜・切り芝(きりしば)での還立の儀では、神馬(じんめ)の背に移られたご神霊の神前で、東遊(あずまあそび)とよばれる古代の歌舞が奉奏されます。
 十五日には、いよいよ葵祭(正式には賀茂祭)が行われます。葵祭は欽明天皇五年(545)よりはじめられました。平安時代には「まつり」といえば、この葵祭をさし、『源氏物語』『枕草子』など、さまざまな文学に登場する、日本の代表的なおまつりです。
 なかでも御所から下鴨神社へ参向される勅使(天皇のお使)の行列が有名で、現在でも衣冠束帯や十二単衣などの宮人官女が平安絵巻を都大路に繰りひろげます。行列の拝観は京都御所と、下鴨神社糺の杜の緑の中をすすむ雅やかな女人たちを参観することができます(行列拝観席は京都市観光協会にお問い合わせ下さい)当神社に行列が到着すると、社頭では、人々の幸せを析る勅使の御祭文(ごさいもん)(祝詞)奏上牽馬(ひきうま)(神さまに奉納のお馬をご覧いただく)、東遊(あずまあそび)(舞)がおこなわれ、馬場では走馬(そうめ)(牽馬でご覧いただいたお馬を走らせる)が行われます。(雨天の場合、行列は翌日に順延になります。社頭の儀の参列は当神社社務所にお問い合わせ下さい)
糺の杜の名所(摂・末社など)と四季の行事  賀茂御祖神社(下鴨神社)入場パンフレットより 写真:横山健蔵氏
下鴨神社境内
式年遷宮と文化財の社殿五十五棟
 当神社は、ほとんどの社殿を二十一年ごとお社を造り替える式年遷宮の制度がが定められています。現在はすべての社殿が国宝・重要文化財に指定されているため、大修理をもって遷宮とされています。ただいまは、第三十三回式年遷宮が平成六年に東西両本殿のご遷宮がおこなわれ、つついで各社殿やお社の修理がおこなれています。 社殿はいずれも、平安時代の様式を史実に伝え、本殿二棟は国宝、五十三棟が重要文化財に指定されています。 国宝の東西本殿はいずれも「流造(ながれづくり)」という様式です。この流造は全国の神社で最も多い様式ですが、そのはじまりの形をそのまま伝えています。
古神札納所の案内指示が見える
輪橋(そりばし)と光琳(こうりん)の梅
尾形光琳(1658〜1716)が、このあたりを描いたのが「紅白梅図屏風(国宝)」である。この梅を「光琳の梅」と呼ばれるようになった
橋殿 (重要文化財)
御蔭祭(みかげまつり)のとき、御神宝を奉安する御殿。古くは御戸代会(みとしろえ)神事、奏楽、里神楽、倭舞(やまとまい)が行われていた。
また行幸、御幸のさい、公卿、殿上人の控え所と定められていた。現在は、名月管弦祭、正月神事等、年中祭事のときに神事芸能が奉納される社殿。式年遷宮寛永五年度(1628)造替後は、二十一年ごとに解体修理が行われる。入母屋造、檜皮葺、桁行四間、梁間三間
細殿 (重要文化財)
平安時代の当神社「神殿記」に「細殿」とあり、歴代天皇の行幸、上皇、院、関白賀茂詣には、歌会などが行われた社殿である。近くは霊元天皇、亨保年中の行幸に歌会が行われた。また天明度御所回禄(火災)には、内侍所(賢所)の泰安所となり、文久回禄の時には、祐宮(明治天皇)安座所となった他、文久三年、孝明天皇賀茂行幸には、徳川家茂将軍の侍所となるなど歴史的な社殿である。内部の構造は、二重天井となっており、外部は向背付流造という建築学的にも重要である。御本宮式年遷宮ごとに造替されており、現在の社殿は寛永五年度(1628)遷宮建替になるもので、以降は遷宮ごとに解体修理が行われている
井上社 別名 御手洗(みたらし)社
祭神 瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)
例祭 土用の丑の日
この社の前身は、「三代実録」元慶三年(879)九月二十五日の条をはじめ、諸書に見える唐崎社である。賀茂斎院の御禊や解斎、関白賀茂祭の解除に参拝になった社である。
元の社地は、高野川と鴨川の合流地東岸に鎮座のところ、文明の乱により、文明二年(1470)六月十四日焼亡したため、文禄年間(1592〜96)にこの所に再興になり、寛永度(1629)式年遷宮より官営神社となった。また井戸の井筒の上に祀られたところから井上社と呼ばれるようになった。
賀茂祭(葵祭)に先立つ斎王代の御禊の儀は、この社前の御手洗池で行われ、夏の風物詩。土用の丑の日の足つけ神事立秋の前夜の矢取りの神事はともに有名である。土用になれば御手洗池より清水が湧き出ることで七不思議の一つにも挙げられ、池底から自然に吹き上がる水泡をかたどったのが、みたらし団子の発祥と伝えられている。

御手洗(みたらし)社(井上杜)
 瀬織津比賣命(せおりつひめのみこと)をおまつりしています。病気やけが、さまざまな災難除けの神さまです。お社は井戸の上に建立されており、社の前がみたらしの池と呼ばれ、下流を御手洗川(みたらしがわ)とよんでいます。みたらしの池の南庭は、おまつりの時のお祓いの場所です。葵祭に先だって斎王代がみそぎをされるところです。 夏の土用の丑の日の「足つけ神事」、立秋前夜の「矢取り神事」は有名でたくさんの人で賑わいます。また、みたらしの池の湧く水のあぶくを人の形にかたちどったのが「みたらし団子」で、発祥の地と伝えられています。

御手洗川(みたらしがわ)
君がため 御手洗川を若水に むすぶや千代の 初めなるらむ (後撰和歌集)
土用の丑の日に、この御手洗川に足を浸し、疾病や病を封じて祈願して賑わう「足つけ神事」や立秋の前夜の「矢取り神事」葵祭の「斎王代(さいおうだい)の禊の儀(みそぎのぎ)}をはじめ、祓いの神事が執り行われるところである。また常は水が流れていないが、土用が近づくと、こんこんと湧き出るところから、京の七不思議の一つとされ、その様をかたちどったと云われる「みたらし団子」の発祥のところでもある
お社の前に立てられている「駒札」などの写真を撮っている間に、バス2台の一行から遅れてしまった!
HP作成は、写真も記録資料(文)も必要なのがつらい。うっかり写真だけ撮っていても、さて何のお社だったのかなと言うことも屡々生じる。本来、文化財に親しんでいる会員の姿を撮るのが目的で、社殿など文化財そのものは入場パンフレットなどから拝借すれば済むのではあるが、多少はりっぱな国宝・重文も撮りたいし、そうなると駒札を撮って帰り、書き出してパソコン入力をすることになる。話しがそれたが、バス2台の皆から遅れ、その最後尾が「糺の杜」方面に消えるのを片目で見ながら、反対方向の「御手洗社(井上社)」に向かい駒札と神社の写真を撮る。引き返して慌てて橋殿の横から「糺の杜」に入り、「奈良の小川」沿いの小道を森の中を急ぐ。ところが僅かに散策する人がいるだけで、行けども行けども誰もいず追いつけない。「はぐれた」と思うとあせった。そうなるともう折角の「糺の杜」の風景・樹木など、写真を撮る余裕もない。そして飛び出したのがこの下鴨神社に入る手前の大鳥居。いたいた皆んないた。何のことはない糺の杜の小道を散策せずに、ただ参道を戻ってきたのだ。と言うわけで以前に「糺の杜」をゆっくり散策した思い出の再現(これを期待)ができませんでした。団体旅行のつらいところです
国指定史跡
糺の杜(ただすのもり)

三万六千坪の境内は
「糺の杜」とよばれ、
全体が国の史跡に
指定されています。
また、数々の社殿群と
ともに世界文化遺産
にも登録されています。
 糺の杜は、古代の
山城国の名残をとどめる
自然遺産で、文化財と
白然環境保護のために
財団法人「糺の杜顕彰会」
が結成され、
毎年四月二十九日
(みどりの日)の市民植樹祭を
はじめいろいろの保全活動
がおこなわれています。
 お問い合わせは、当神社社
務所内事務局まで
お申し出ください
下鴨神社境内図
霊璽(れいじ)社(印社(いんのやしろ)、印璽社(重要文化財)
印鑑・契約守護の神さまとして篤い信仰があります。
境内に、この霊璽社の分霊「印納(いんのう)社」がおまつりされており、古い印章を納めています。(古印章納のご祈祷は随時受付けています。)

出雲井於(いずもいのへの)神社(通称・比良本(ひらき)社 重要文化財)
地主神である須佐之男命(すさのおのみこと)をまつっています。この神社の周囲にどのような本を植えても、柊葉(ひいらぎば)のようにギザギザになることから比良本社(柊社)ともよばれています。運開き、厄除けの神さま、また茶道の神さまとして信仰されています。 末社には短歌や芸ごとの上達を祈願する神さまがまつられています。

相生(あいおい)社と連理(れんり)の賢木(さかき)
縁結びの神さまとして有名で、神皇産霊神(かむむすびのかみ)さまをおまつりしています。結納の守護神としてもあがめられ、古い結納を納めるご祈梼も随時お受けいたしております。
 また、お社の脇の授与所は、『源氏物語』にちなんで調製された「縁結びおみくじ」が人気になっています。
 また、相生社の縁結びの霊験のあらわれによって二本の木が途中から一本に結ばれている「連理の賢木(れんりのさかき)」という不思議なご神木があります。あまりの珍しさに「京の七不思議』にあげられています。この木が枯れると、糺の杜のどこかに跡継ぎが出末るとの言伝えがあり、現在のご神本も四代目にあたります。

御蔭(みかげ)神社
比飯山の西方、東山三十六峰二番目の御蔭山(みかげやま)に鎮座し、古代からの祭祀、御生神事(みあれしんじ)、現在は御蔭祭(みかげまつり)とよばれているお祭りがおこなわれます。

赤の宮(あかのみや)賀茂波爾(かもはに)神社
高野川の上流にあり、古くから開拓の神として篤い信仰があります。御蔭祭には「路次祭」がおこなわれ、雅楽「還城楽(げんじょうらく)」が奉納されます