世界文化遺産・吉野の国宝と文化財を訪ねて       綾部の文化財

6月8日にバス2台80名で訪れました、綾部の文化財を守る会の春の研修旅行です。

早朝の綾部駅北口 バス2台で出発 吉野路 大淀 i センタ−
如意輪寺への下り道を歩く
如意輪寺山門
楠木正行公の由縁が書かれた立て札
山門をくぐり抜けて
如意林寺本堂前で
中千本から長い石段を上がった方の本堂正面の山門。車道から下れるようになり楽になった
楠木正行公の遺物のある如意輪寺本堂を前に、一号車の皆さん
吉野町観光ボランテアガイド 田原信夫さん
同じく2号車の皆さんの記念撮影
吉野町観光ボランテアガイドの会々長・富田良一さん
幽香楼
如意輪寺庫裏
小楠公髷塚の碑
正行公および143名が出陣に先立ち如意輪堂に奉納した髷を埋めた処
如意輪寺宝物殿
如意輪寺宝物殿の天井にある日本最大如意輪観世御菩薩画像(ねおがみの観音)御本尊如意輪観世音をモデルに画いた、日本最大の油絵像である。馬堀喜孝筆 天井画(ねおがみの観音)の下には、寝椅子がおかれ寝て拝観できる
阿弥陀如来木造(重文)
宝物殿の展示より
不動明王木造(室町)
写真撮影は許可されているが、フラッシュは不可。ガラスケ−スごしの撮影で、室内は暗く、照明や外光が反射して、まともに撮れなかった
愛善明王木造:江戸時代
三千仏画像
後醍醐天皇御祈りの図、植中直斎筆。金剛蔵王権現に天下泰平を祈願される様子
如意輪寺宝物殿の中をバスの号車毎に分かれて拝観する80名の会員
宝物殿に掛けられた多数の絵画の一部より
後醍醐天皇と楠木正行
次帝後村上天皇の正平2年12月27日(1347)楠木正行公の一族郎党143人が、四条畷(大阪府)の決戦(足利武将:高師直との戦)に向かうに当たり、吉野の皇居に天皇と今生の別れを告げ、先帝の御陵に参拝の後、如意輪堂に詣で、髷を切って仏前に奉納、過去帳に姓名を残し、最後に、正行公は鏃をもって御堂の扉に
かえらじと かねておもえば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」と辞世の歌を残して四条畷に向かったが、衆寡敵せず、弟正時と共に最期をとげた。時に年23才である
高いところにも楠木正行公の絵画が掲げられている
展示された宝物を現地ガイドさんの説明を聞きながら拝観
楠公父子の石像
太平記で有名な楠木公父子(正成、正行)の櫻井の別れの石像
正成涙をうち払い わが子正行呼び寄せて 父は兵庫におもむかん 彼方の浦にて討死せん 汝はここ迄来つれども とくとく帰れ故郷へ
楠木父子の石像を前にガイドさんから説明を聞く
如意輪寺多宝塔
御本尊阿弥陀如来、総欅造りの納骨堂
弁内侍の至情塚
後村上天皇より正行公の奥方にとお言葉があった弁内侍だが、「とても世に 永らうべくもあらう身の 仮のちぎりを いかで結ばん」と断った正行公は果たして討ち死にを遂げた。内侍は悲しみの余り髪を切り尼となって正行公の菩提を弔う。その時の歌に「大君に 仕えまつるも 今日よりは 心にそむる 墨染めの袖」とあり、その黒髪の一部を埋めたのが、この至情塚だと云われている
辯内侍の至情塚を前にガイドさんの説明を聞く綾部の文化財を守る会会員
後醍醐天皇陵
元弘三年(1333)専横の北条幕府を倒し、建武中興をなしとげた後醍醐天皇は、足利氏との争いのため京都をのがれ、延元元年吉野に行幸、以来吉野宮に過ごされた。当山は叡信特にあつく吉野町の勅願所となった。延元4年(1339)天皇は病床につかれ「身はたとへ南山の苔に埋むるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん」と都をあこがれつつ、ついに崩御された。天皇の御遺骸をそのまま当時の裏山に葬られたのが塔尾稜である
後醍醐天皇陵の石段を降りる
道路に出てバスの到着を待つ会員
竹林院群芳園までバスが入り下車。竹林院は、もと椿山寺と称し、聖徳太子建立の一寺と伝えられており、古来より山伏修験者の宿坊として利用され、太閤秀吉の遺品も多く、西行法師、細川幽齋等の多くの文人、墨客、一般旅行者の宿として今日に至っています。昭和56年には昭和天皇皇后両陛下も宿泊された宿であり、現在は修験宗の単立寺院である
竹林院群芳園
 この竹林院には大和三庭園の一つにて群芳園と呼ばれ、室町末期第21代尊祐が大峰山上に竹林院を建立したとき、大峰山の景観を山下の竹林院に移して庭園を築造したのに始まり、豊臣秀吉の吉野観桜の折り、千利休が桃山風に修築、細川幽齋が改修したといわれる、桃山風の地泉回遊式借景の名園がある。会報「綾部の文化財」より
竹林院入り口の庭園
竹林院護摩堂
群芳園から竹林院を見る。
大和三庭園の一 群芳園
当麻寺中の坊大和小泉慈光院とともに、竹林院の庭を群芳園といいます。室町時代の末ごろ、竹林院第21代の住職、祐尊という人が大峯山にも竹林院を建て、また大峯山の様子を下院に移して庭園を築造しました。(竹林院雑記)その後豊太閤の吉野山観桜、文禄3年(1595)に際して、千利休がそれまであったものに手を加え、いま見られるような桃山風の庭園に改築したものですが、一説には細川幽斎が改築したものとも云われています。
庭は320坪(約1000平方米)ほどあって、池泉回遊式の形をとり、入った手前にも出島があり、左の角に滝がつくられています。奥庭のうち、蓬莱石組みが中心になっているのは、桃山時代の作風を示し、二重集団、二重護岸の石組みなどは、室町時代の遺構をそのまま残しています。形式上は、池泉回遊式となっていますが、吉野山の自然の景観も取り入れられて、借景式庭園としても見る人を楽しませてくれます。
群芳園から竹林院を見る。
天人の桜
群芳園、池泉回遊コース
池の左手を山に登っていく
丘の上に建つお堂、ここからの展望が素晴らしい
谷向こうの展望、塔がいくつも見える。200mm(35mm換算320mm)望遠で撮影
降り道から見た竹林院護摩堂の屋根
屋根上に煙出しの乗った竹林院
吉野竹林院の本玄関ロビ−に展示の、豊臣秀吉、吉野観桜時の茶弁当(伝/千利休)
ここで一行80名が昼食をいただく
大広間を借り切っての昼食風景
なかなか美味しいご馳走を昼食にいただき満腹
桜本坊(さくらもとぼう)
 竹林院のすぐ前に「桜本坊」がある。大海皇子が、天智10年(671)京都からのがれ、吉野の「桜本坊」の前身・日雄(ひのお)離宮にとどまっていた時、夢で咲き誇る桜を見、役小角の高弟日雄角乗に占わせると「桜の花は花の王といわれる。これは皇子が必ず皇位につく知らせである」と答えた。皇位についた天武天皇は角乗に命じて一寺を建立した。これが「桜本坊」である。境内には「天武天皇夢見の桜」と名づけた桜木や、樹齢三百五十年を経たギンモクセイの巨木がある。この桜本坊には白鳳期の銅造釈迦如来像(国重文)など多くの重要文化財を保存されている
下り坂を歩く会員
勝手神社(かってじんじゃ)
平成13年9月27日に不審火で焼失。
 吉野山口神社ともいわれ、金峰山の山の神、水源を養う雨の神、又は軍神として名高い。現社殿は慶長九(1604)年豊臣秀頼が改築したが、二度ほど火災にあっているが、静御前が捕らえられ心ならずも法楽の舞を舞わされ、そして鎌倉へ送られた事で有名。鎌倉では頼朝の前で「吉野山峰の白雪ふみわけて入りにし人のあとぞこひしき」と舞って、義経をしたい、一座の関東荒武者を感動させたという。(綾部の文化財会報より)
この神社の祭神は、大山祇神、木花咲耶姫命ほか三神で、社殿は豊富秀頼が慶長9年(1604)に改修したのが、正保元年(1644)12月に焼失したので、翌2年に再建され、さらに明和4年(1767)にまたもや焼失しました。現在の建物は、この後の再建になるものです。
社殿の後ろの山を袖振り山といって、天智天皇の10年(672)大友皇子に対抗して、吉野(今の宮滝か)に兵を挙げた大海皇子(天武天皇)が、この神前で琴をかなでていると、天女が後ろの山から袖をひるがえして舞ながら現れ、吉兆を示しました。この故事が五節の舞の起こりだといわれ、芸ごとに深いかかわりを持つ神様とされ、かっては猿楽や能が盛んに奏納されました。吉野町観光課
義経公静御前舞塚

勝手神社(かってじんじゃ)
吉野八社明神のひとつで、金峯山の入口にあるので、山口神社ともいいます。
文治元年(1185)暮れ、源義経と雪の吉野山で涙ながらに別れた静御前は、従者の雑色男に金銀を奪われ、山中をさ迷っているところを追手に捕らわれて、この社殿の前で雅た姿で法楽の舞をまい、居並ぶ荒法師たちを感嘆させたという話が伝えられています
吉水神社に向かう道中に薬問屋があった
これぞ、山中間の皆さんがよく効くと絶賛の「陀羅尼助丸(たらにすけ)」、胃腸薬ですごく苦いよし。年配の方ならよく知っておられるようである。その母に育てられし子供もまた。家庭の常備薬だった
早速、大蝦蟇(ガマ蛙)を前に買い物をする会員に応対中の店の人
吉水神社の山門に到着
南朝本拠、四帝御座所、吉水神社と門標にある
吉水(よしみず)神社
(今回世界遺産登録の奈良県の六社寺の一つで国重文の書院等多くの文化財がある。御祭神 第九十六代後醍醐天皇・楠正成公・吉水院宗信公)又、別格本山で大峰山寺五護持院の一つである東南院(修験本宗)の前に吉水神社の鳥居がある 
 これをくぐって坂道を下ると「従(これ)是(より)吉水院」の標石があり、石段上に山門がある。標石の通り明治の神仏分離の際(明治八年)までは吉水院と云う寺であり、白鳳年間(凡そ千三百年前)役行者が大峰山で修行したとき、庵室の跡に建立したのが始まりと伝える古い吉野修験宗の僧坊であった
 延元元年(1336)京より免れた後醍醐天皇は吉水院宗信の援護のもとに当社を南朝の行宮と定められた。かくて天皇が当社に第一歩を記されてよりかの悲壮な吉野朝四代五十七年に渡る血涙の歴史の第一頁が開かれここに南北朝の対立が始まったのである。天皇はこうしたへき遠の地に憂悶数年を過ごされ、悲憤の最後を遂げられたのである。即ち当社はその南朝の御本家に当たり現在吉野朝、唯一の行宮である
 この神社が有名になったのは、その由緒もさることながら現存する書院(国重文)が日本住宅建築史上最古の位置をしめているからである。即ち我が国書院建築史の第一頁に位する本格式の住宅建築で現在日本住宅の源流をなす最古の実例として数々の珍しい手法が見られる初期書院造の代表的傑作である。「義経潜居の間」は室町初期の改築で床棚書院の初期の様式を伝えるきわめて古風な遺構であり「後醍醐天皇玉座」は後年秀吉が花見に際し修理したもので豪華な桃山時代の風格を残した書院でこれら両期時代の特長が比較でき真に興味深いものがある
 花にねて よしや吉野の吉水の 枕の下に 石走る音
 この書院の下を今も流れ続ける瀬古川を歌われた後醍醐天皇
 文禄三年(一五九四)豊太閤が当社を本陣として盛大なる花見の宴を催し数日滞在されて歌の会、お茶の会、お能の会を開いて豪遊された時の歌
 年月を 心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな
 所蔵の文化財は頗る多く、百二十数点にもなる南朝の資料は日本一である。
 境内には中千本・上千本一帯が展望できる「見わたしの いとよき所」、「桃山時代の小庭園」、「義経駒つなぎ松跡」、「義経馬蹄跡」、「弁慶力釘」などもある
上・中 一目千本よりの展望
見わたしの いとよき所(一目千本)
境内には、中千本・上千本一帯が展望できる、「見わたしの いとよき所」があり、ここに立って、谷から吹き上げる風を頬に感じる時、ふと義経・静御前の悲しき別れや南朝の哀史が聞こえてきそうな気のする詩情豊かな広場があります。又「桃山時代の小庭園」もあり、遺跡として、「義経駒つなぎ松跡」「義経馬蹄跡」や「弁慶力釘」かある
吉水神社拝殿前
当社は元吉水院と称し、今から凡そ千三百年前、白鳳年間に役行道の創立と伝えるきわめて古い吉野修験宗の僧坊であった。そして明治の初めまで永年の間幾多の歴史を秘めて修験道の勢力と共に発展して来たが、明治維新の神仏分離の際(明治八年)神社と改ったものである
拝殿で参拝する会員
祭壇 非理法権天、楠正成公、吉本院宗信法印の表札がかかっている
元より当社は南朝の元宮であり、ここに後醍醐天皇を祭神とし、当時天皇の忠臣であった楠正成、吉本院宗信法印を合祀している
人で一杯の お札所前
吉水神社庭園
庭園と北閣門。門の外は遠くまで展望できる
縁側からの庭の眺め
佐藤素心宮司様の法話を聞く
源義経公の鎧
静御前の着衣
義経潜居の間:源の義経、静御前、悲恋の古跡
 文治元年(1185)源義経は兄頼朝の追手を逃れて、静御前、弁慶等と共に吉野に潜入され、当社にしばらく亡命されたのであるが、それも束の聞、追われる者の運命で、ここから悄然として吉野落をされ、奥州へ落延びたのである

吉野山 峯の白雪踏み分けて 入にし人の跡ぞ恋しき
と歌われたように、当社がいわゆるその天下に名高い義経と静の大ロマンスの舞台である。悲運に生きた一代の英雄と佳人との雪路の別れを今に追想するとき、いかに詩的情景であったであろうか、その余りにも美しい悲恋物語は、永く後世に伝えられ愛惜されている。今尚保存されている「義経潜居の間」「弁慶思案の間」並びに数々の遺物を見聞きするに際し、愛妾一人を残して去った義経の胸の内と、夫を一途に慕った静御前の心情とが察せられ一人哀愁が胸を去来するであろう

書院(重要文化財)
この神社が有名になったのは、その由緒もさることながら、実は現存する書院が日本住宅建築史上、最古の位置をしめているからである。すなわち我が国書院建築史の第一頁に位する本格式の住宅建築で、現在日本住宅の源流をなす最古の実例として、数々の珍しい手法が見られる初期書院造の代表的傑作である。又、内容的に見ても「義経潜居の間」は室町初期の改築で、床棚書院の初期の様式を伝える、きわめて古風な遺構であり「後醍醐天皇玉座」は、後年秀吉が花見に際し修理したもので、豪華な桃山時代の風格を残した書院でこれらの特長が比較出来て真に興味深いものがある
「写真はいくら撮ってもらっても結構です。但し、兜や静御前様の衣装等は持って帰らないで下さい。一度、もって帰られたがありましtが、古道具屋でも引きとってもらえず手元に帰って来たことがあります。」などと面白くご説明頂いたのは源義経の忠臣・佐藤忠信ではない宮司の佐藤素心(さとうそしん)様でした。四方續夫氏記
後醍醐天皇玉座
後醍醐天皇南朝の皇居
延元元年(1336)京の花山院より免れた後醍醐天皇が吉野に御潜幸になり、吉水院宗信の援護のもとに当社を南朝の行宮と定められたのである
かくて天皇が当社に第一足を記されてより、かの悲壮な吉野朝四代、五十七年に渡る血涙の歴史の第一頁が開かれ、ここに南北朝の対立が始まったのである。天皇はこうしたへき遠の地に憂悶の数年を過されたが、遂に病を得て悲憤の最後を遂げられたのである
即ち当社はその南朝の御本家に当たり現在吉野朝、唯一の行宮である

花にねて よしや吉野の吉永の 枕の下に石走る音
この有名な御製は今も尚、玉座の下に流れ続ける宗々とした瀬古川のせせらぎを聞かれて歌われた御心中、むせぶが如く泣くが如く今に琴線にふれるものがある。現存されている当時の玉座並びに数々の御物を拝観する時、そこに神秘的な南朝の哀史が人々の心に想い起され哀感の言、禁じ得ないであろう
吉野建(よしのだて)
吉野山は、馬の背のような尾根の上に開けた所のため、道の両側の家屋は、表から見るとどれも平屋か二階建てであるが、家の裏は急な崖のため、家屋は下方へ二階、三階となっています。これが吉野建て(吉野造)と呼ばれています
神社内から身を乗り出して下を写した
弁慶の七つ道具:武装槍
日本三大秘佛:灰佛弁財天、弘法大師作
役行者:当社は元吉水院と称し、今から凡そ千三百年前、白鳳年間に役行道の創立と伝えるきわめて古い吉野修験宗の僧坊であった。そして明治の初めまで永年の間幾多の歴史を秘めて修験道の勢力と共に発展して来たが、明治維新の神仏分離の際(明治八年)神社と改ったものである
豊太閤豪華花見の本陣
 文禄二年(1594)豊太閤が当社を本陣として盛大なる花見の宴を催し、数日間滞在されて歌の会、お茶の会、お能の会を間いて豪遊され、満天下にその権勢を示しだのは有名である
 年月を 心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな
一世の英雄が、おのが春を謳歌したもので秀吉の豪快なる一面が現われている
当時の状況は、現存する建物並びに数々の寄贈物を見る時、南朝の哀史ときわめて対照的で絢爛たる文化が偲ばれ感慨無量なものがある。
桜の図:桃山時代前期、狩野永徳筆(有名な桃山百双の作者)
吉水神社秘蔵品、特別展示
後醍醐天皇御製
花にねて よしや吉野の吉永の
 枕の下に石走る音
一寸沿道の店屋に寄り道して買い物
紀伊山地の霊場と参詣道
世界遺産金峯山寺 The World Heritage KinpuSenji temple
世界遺産奉賛
秘仏金剛蔵王大権現 特別御開帳 h16.7.1-17.6.30 総本山金峯山寺
後醍醐天皇導稲荷大明神
久富大明神
吉野稲荷大明神
役行者・修験道と金剛蔵王権現
 役行者は七・八世紀の山岳修行者で、修験道の開祖。伝説では生まれは奈良県御所市芽原の吉祥(きっしょう)草寺(そうじ)(山田哲寛住職)に舒明天皇六年(634〜701)にお生まれになったと云われ、檀家がなく、荒れるがままであった本堂を六百年ぶりに平成21年の役行者生誕1375年までに建て直そうと云うものである
 役行者は葛城山で修行。金峯山上で千日の修行に入り、汚濁に満ちた世の中に衆生救済の道を求めて仏の出現を祈っていたところ、修験道の本尊・金剛蔵王権現を祈り出されて大峯山などに霊場を開かれた。又、その姿を山桜に刻まれた。それ以来、人々は桜を権現様のご神木として大切にし、昔は「一枝を伐るものは一指を切る」という厳しい掟があった諭旨。又多くの人々が桜木を寄贈して今日に至ります

蔵王堂参拝、祭殿に上がり日本最大秘仏、国宝・金剛蔵王権現像の特別ご開帳を拝観しながら、金峯山寺宗務総長:田中利典師の法話を聞き、さらに蔵王権現本地堂に移って、蔵王権現の本地仏:釈迦・千手観音・弥勒の三尊を前にして田中利典師から法話を聞く
金峯山寺(きんぷせんじ)(金峯山修験本宗総本山・世界文化遺産登録)と金剛蔵王権現:吉野山から山上ヶ岳(大峯山)に至る金峯山は万葉の昔から聖地として知られ、多くの修行者や貴族が足跡を印している。 
 白鳳年間(七世紀末)修験道の開祖・役行者がこの金峯山を道場として修行され、蔵王権現を感得し、その姿を桜の木で刻み、お堂を建ててお祀りした。これが蔵王堂であり金峯山寺の草建である。
蔵王堂(国宝)は金峯山寺の本堂で現在の建物は天正二十(1592)年に建てられたもので高さ34メートルは東大寺に次ぐ巨大なお堂である。前には「四本桜」があり、元弘三年二月三日(1333)に大塔宮護良親王が北条勢に攻められ吉野落城を覚悟して最後の酒宴をされた所です。又、内陣に入り、四年に一回の密教儀式「伝法潅頂上(でんぽうかんじょうえ)」以外に私達の目に触れることの出来ない三体の秘仏・金剛蔵王権現を特別拝観します
 金剛蔵王権現の右手にある三鈷杵(さんこしょ)は天魔を砕く相で、左手の刀印は一切の情欲や煩悩を断ち切る剣。左足で地下の悪魔を押さえ、右足で天地間の悪魔を払う姿を現されている。さらに、背後の火炎は偉大な智慧、御身の青黒色は深い慈悲を現している。まさに大自然の霊威そのものの発現とも思われる金剛蔵王権現は、神であり、仏として神仏混淆を旨とする修験道のご本尊として祀られています
三体の総高は釈迦如来(中央)7.3メートル、弥勒菩薩(向かって左)は5.9メートル、千手観音世音菩薩(右)は6.1メートル。国の重要文化財で日本最大の秘仏です。釈迦如来、千手観世音菩薩、弥勒菩薩を本来の姿とする変化身です。三尊はそれぞれ過去、現在、未来を現し、三世にわたって私たちを守って下さる守護仏でもあります。心静かに拝めば、すべてを認め一切を許す「恕の心」を感じとることが出来ましょう
文:綾部の文化財を守る会会報より、写真:パンフレットより(堂内撮影禁止です)


部の文化財を守る会の今春の研修旅行は、心配された梅雨入りが延び、好天気の中で実施されました。参加人数80名

日本最大秘仏、国宝・金剛蔵王権現像の特別ご開帳を拝観しながら、金峯山寺宗務総長:田中利典師の法話を拝聴し、さらに蔵王権現本地堂に移って、蔵王権現の本地仏:釈迦・千手観音・弥勒の三尊を前に同師のご法話を拝聴、続いて蔵王権現堂をバックに記念写真を田中利典師にも入っていただいて撮影しました
お堂
蔵王堂境内、ここから仁王門に降っていく
仁王門(国宝)
 現在の建物は康正二年(1456)の室町期の再建で、蔵王堂山上に向かい南面し、この仁王門は北面している。吉野熊野修験道には本山派(天台宗聖護院)・当山派(真言宗三宝院)の二派があり、その入峰順路が、本山派は熊野から吉野へ北へ進む「順峰」、当山派は吉野川六田の渡しから熊野へと「逆峰」をとるため、蔵王堂を挟んで南北に相対した門を必要とし、南の二天門に対する北門である
銅の鳥居(かねのとりい)(国重文)
安芸の宮島の「朱塗りの鳥居」、大阪四天王寺の「石の鳥居」とともに日本三大鳥居の一つである。「発心門(ほっしんもん)」の扁額は空海・弘法大師の筆と伝えられる金峯山入峰の第一門である
七曲り下の千本
店屋さんの並ぶ通りをぶらぶらと下っていく。
最初の計画では、銅の鳥居から再び坂道を上がり、昼食をとった竹林院まで戻る大変な苦労コースだったが、現地ガイドさんの説明で、この下の千本までバス道が付き、駐車場も出来たとの事で、大幅な時間短縮(一時間)と楽をすることが出来た
下り坂、お店屋さんで買い物をしながら歩く。
黒門前 黒門をくぐって たくさん買った 吉野葛
黒門:黒門は金峯山寺の総門で、いうなれば吉野一山の総門でもあります。こういう様式の門を高麗門といい、城郭によく用いられています。昔は公家大名といえども、この門からは槍を伏せ、馬をおりて通行したという格式を誇っていました。ちなみに金峯山というのは、吉野山から大峯山に至る峰続きを指し、修験道関係の寺院塔頭が軒をつらねていました。それらの僧門がこの黒門だったのです。現在の黒門は、昭和60年秋、金峯山寺本堂蔵王道の大屋根修理にあわせて改築されたものです
朱塗りの橋 呼び戻されて 写真を頼まれる 柿の葉鮨で買い物:平日で店の準備不足、待たされて一時間の貯金もゼロに。更に時間延長して・・