柏原歴史・民俗資料館・栢原藩陣屋跡(国指定史跡)・田ステ女記念館   綾部の文化財HPへ

綾部九鬼藩と関係の深い、三田九鬼藩の三田歴史資料集蔵の先進地視察をすませて、午後帰路の途中にある、柏原歴史資料館柏原藩陣屋跡(国指定史蹟)・田ステ女記念館を訪ねました。
織田信長の弟:織田信包(のぶかね):初代藩主
織田信包(のぶかね)は、信長の弟にあたり、初期信長政権下では北伊方面の経営にあたるとともに、織田一門衆として緒戦に活躍しました。
信長亡き後は、豊臣秀吉に属し、伊勢の安濃津(あのづ)で15万石を領していましたが、やがて秀吉と不仲になり、文禄3年(1594)には領地没収の上剃髪して謹慎を命じられます。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、戦後も所領は安堵されて豊臣秀頼に近侍していましたが、慶長19年(1614)大阪城内で死去しました。
三代藩主、信勝の治政
織田信勝は、二代藩主信則の長男で、寛永7年(1630)三代目藩主となりました。信勝は領内の佐治川に堤防を築いたり、新田の開発を行い善政を敷きましたが、慶安3年(1650)28才の若さで死去し、世継ぎとなる男児に恵まれなかったため、 栢原藩は改易となりました。
信勝は八幡神社に自筆の社号額や釣灯篭を奉納するなど信仰心も厚く、鳥を題材にした絵画が多く残されており、その繊細な筆跡から優しく細やかな人柄をしのぶことができます。
宇陀騒動・大宇陀の町並み
宇陀騒動:織田信休の旧領・大和松山藩は、信長の二男信雄が大阪の陣直後の元和元年(1615)7月に大和国宇陀郡で3万2千石の領主になったことに始まります。
初代藩主信雄のあと高長(たかなが)長頼(ながより)と続きましたが、元禄7年(1694)家臣団の内紛に端を発して、四代目藩主、信武(のぶたけ)が家臣2人を殺害のうえ自殺したため、翌年幕府は宇陀の領地を没収して、藩主となっていた信休に丹波に国替えを命じ、栢原藩は再興される結果となりました。
初代藩主織田信休の治政と系図
初代藩主 織田信休の治政
織田信休は、信長の二男信雄を初代藩主とする大和松山四代目藩主、織田信武の長男で元禄7年(1694)に起こった「宇陀騒動」の後、藩主になりましたが、翌年減封のうえ、丹波に国替えの処分を受けました。
宝永元年(1704)に大和川改修の普請を命じられるなど出費が重なり、柏原に居館が完成したのは、入部後20年を経た正徳4年(1714)のことで、この時城下町の建設にも着手して、現在の柏原の町並みを形作りました。
栢原藩の領地(入部当時)元禄8年、領地目録による
氷上郡の内 44ケ村
栢原町、母坪村、稲畑村、柿芝村、下小倉村、長野村、北嶋村、池谷村、大田村、下瀧村、鴨坂上村、鴨坂下村、東芦田村、桟敷村、井中村、田中、犬田村、應地村、岩屋村、井原村、金屋村、田井縄村、口塩久村、奥塩久村、小和田村、山垣村、遠阪村、大名草村、桧倉村、佐治村、西芦田村、栗住野村、沼村、御油村、中村、小野村、坂村、石才村、古川村、野山村、大崎村、阿草村、本郷村、南田井
高:1万4千486石9斗8升4合

何鹿郡の内 8ケ村
高槻村、位田村、坊河内村、西方村、物部村、志賀村、小畑新庄村、報恩寺村
高:2千6百55石 8斗 2升 3合

天田郡の内 5ケ村
田野村、河北村、戸田村、前田村、石原村
高:2千8百55石8斗2升3合

都合高:2万石
栢原藩の領地
栢原藩の領地は、「元禄8年領地目録」によると、氷上郡44ケ村、何鹿郡8ケ村、天田郡5ケ村の合計、57ケ村で「高2万石」と記載されていますが、山深い奥丹波の地にあって、実際の収穫高は1万石にも満たなかったといわれています。
その領地も他藩の大名領や旗本諸侯の知行地が複雑に入り組んでいるうえ、飛び地も多くて、支配不便な領地の分布状態を示しており、お家騒動を起こした外様の悲哀を物語っています。
日誌帳:藩の収納関係
同行の綾部史談会古文書部会の先生方が熱心に読んでおられました。
鬼板瓦 左側面刻銘
久下上瀧村 瓦屋治兵衛 文政元年寅11月吉日
飾り紋
さわってみよう。鉄砲の展示
軍配?
陣羽織?
鎧・兜
塗り椀 栢原藩織田家伝承
栢原陣屋(文化文政期)
柏原資料館の見学風景、綾部の文化財を守る会いかるが民族民具資料館)・綾部史談会古文書部会)・綾部市資料館の一行。
柏原資料館の展示を見る綾部史談会古文書部会文化財を守る会いかるが民俗民具資料館準備委員・綾部市資料館の近澤館長など一行
資料館展示を熱心に見学
柏原藩陣屋跡の模型
田ステ女記念館(柏原藩歴史民俗資料館に併設)
雪の朝 二のじ二のじの 下駄のあと」の俳句で有名な柏原の俳人田ステ女の資料が系統だって展示されております
田(でん)ステ女(すてじょ)記念館
柏原が生んだ俳人、田ステ女(1633-1698)300回忌を記念して開館しました。田家伝来の資料を中心に展示し、俳人、尼僧のステ女、彼女にまつわる人々を紹介します。
元禄の四俳女:の一人: 田ステ女
寛永10年(1633)柏原に生まれたステ女は、6才の時「雪の朝二の字二の字の下駄のあと」の句を詠んだと伝えられるなど、幼い頃からその才能を発揮しています。自ら書き綴った「自筆句集」:には、200以上の句が収められており、当時から名の知れた女流俳人でした。19才で、!継母の連子の季成(すえなり)と結婚し、五男一女をもうけますが、その後も夫とともに俳諧を続けています。
おもふ事なき顔しても 秋の暮」 ステ
ステ女公園(千日寺跡)
柏原町高谷。ステ女が夫を弔うために千日間念仏を行ったため、千日寺と呼ばれた。寛政10年(1798)には、地元の俳人有志によって「栗の穂や身は数ならぬ女郎花ステ」の句碑が建てられた。
尼僧 貞閑(ていかん)
42才のとき夫に先立たれたステ女は、出家し第二の人生を送ることを決意しました。剃髪したステ女は、京で盤珪永琢(ばんけいようたく)と出会い弟子になると師の寺・龍門寺がある姫路の網干(あぼし)へと移り住みました。網干では名を貞閑と改め、龍門寺に程近い不徹庵(ふてつあん)の庵主を勤めるなど、尼僧達の中心的存在となり、元禄11年(1698)66才でその生涯を閉じました。
松尾芭蕉とほば同時代を生き、俳諧で名を知られたステ女は、後半生を尼僧として暮らし、次第に俳諧から離れ歌を多く残しています。
田ステ女記念館内の見学
大名行列のミニチュア
柏原町歴史民俗資料館
栢原藩伝来資料の保管と柏原町の歴史・民俗・考古に関する資料を収集保存し、調査研究・展示する施設として柏原藩陣屋跡に隣接して設置しました。このため当館の常設展示は、柏原藩陣屋跡と柏原藩の歴史についてテーマ展示を行っています。
織田信長の息子、信雄
柏原藩主織田家長屋門 (県指定文化財)
指定年月日:昭和37年7月16日 所有者管理者:柏原町
柏原藩初代藩主織田信休が、公邸の表御門として正徳4年(1714)に築いたもので、内部は向かって左側が、畳敷きの番所、門扉を挟んで右側が、板張りの馬見所と砲庫の3室に仕切られている。桁行き13間半、梁間2間を測り、桟瓦葺きの入母屋造りと、総体的に簡素な構造ではあるが、数少ない大名邸宅遺構の一つとして貴重である。
平成4年11月 兵庫県教育委員会
下校時間、子供たちが長屋門の前を通って帰って行った。
通りをはさんで栢原歴史資料館が建つ。
栢原藩陣屋跡(国指定史跡)
指定年月日:昭和46年1月6日 所有者、管理者:柏原町
柏原藩陣屋跡は、正徳4年(1714)に初代藩主織田信休によって造営された柏原藩主織田氏の居館跡である。道営当初の建物は、文政元年(1818)の火災で焼失し、文政3年(1820)頃に再建されたものが建存する御殿である。現在は表御門の部分と長屋門が残るだけであるが、門から御殿玄関へと続く構えは、全国的に類例が少なく、近世大名の居館を考えるうえでも貴重な遺構として、国の史跡に指定されている。
平成6年3月 柏原町
柏原藩陣屋跡に向かう
柏原藩陣屋跡
陣屋は、織田信休が移封後約20年を経た正徳4年(1714)に造営したものです。当時の陣屋は、約20、000平米の敷地に表御殿、中御殿、奥御殿のある主屋や台所、幕末には藩校の崇広館等が存在しました。現存するのは、文政3年(1820)に再建された表御殿の一部で昭和46年国の史跡に指定されました。
陣屋跡、文政3年(1820)に再建された表御殿の一部を見る
見学して回る
書院
書院・上の間
陣屋跡玄関に腰掛けて、一行18名+1(撮影者)