歴史は蔵の中 −ひとつの蔵にひとつの歴史、蔵の数だけ歴史がある−  綾部の文化財へ

綾部市資料館第14回特別展示
会期:平成18年10月28日(土)〜12月10日(日)
展観料200円(中学生以下は無料)

12月1日(金) 綾部市資料館第3回目作品「入替」られる
大好評の綾部市資料館の「歴史は蔵の中」=綾部の大庄屋広小路羽室家の所蔵品=は、開催期間を延長して、第3回目の軸物が入れ替わりました。大人200円(中学生以下無料)12月10日で終わりです。是非子供同伴で見学してください。
曽我蕭白の見事な軸屏風「十二仙人図」はそのまま、与謝無村の軸屏風の一部「人物画」は復活、新たに円山応挙の掛け軸「方士図」2幅、「犬図」、掛軸では新たに岸連山の「牛図」、海北友松の「枯木鴉図」、太田蜀山人の「狐図」等が目立ちます。 
綾部の文化財を守る会:事務局長(記)

羽室家収蔵品と綾部の文化
 綾部藩綾部組大庄屋であった羽室家は、綾部一の豪商として藩財政を支え、近代においても綾部の経済界の一翼を担ってきた名家です。その羽室本家を今に引き継ぐ広小路羽室家の蔵に収蔵されてきた資料は、各種道具類・軸物・屏風・古文書など数千点にもなり、これらはまさに綾部の近世〜近代の町の歩みを物語るものです。今回、羽室家のご協力を得て、初めて蔵の封印が解かれ、綾部市資料館で展示公開されることとなりました。

「羽室家展」について
<綾部資料館に広小路・羽室家の収蔵品一括寄贈>
 広小路・羽室家は、元禄5年(1692)広小路の現在地に屋敷を構えて以来、三百有余年の歴史を経て今日に至っています。
 今度び「広小路・羽室家展」の展示品は、昨年(平成↓7年の春から夏にかけ)、綾部資料館に広小路・羽室家の「蔵の収蔵品を一括寄贈」いたしました。
 収蔵品は、各道具類・掛軸・屏風・古文書などであり、郷土・綾部の研究に、役たてばという願いから、私(羽室功一)の一存で決定し寄贈いたしました。
 江戸時代から明治時代に至る「古文書」類は、今後の郷土・綾部の歴史が郷土史家により、いっそう深く解明されます事と思われます。
 亦「各道具類・掛軸・屏風」などは、「丹波之国・綾部藩」「広小路・羽室家」の解説文を、ご覧いただければ幸いです。

 <期間中「展示品」は、数回に亘り入替えがあります。>

「広小路・羽室家展」の展示期間は、下記の通りです。
 平成18年10月28日(土)〜11月26日(日)
 この機会をお見逃しなく、是非ご覧ください。
 綾部・広小路・羽室家  第十一代当主 羽室功一

丹波の国・綾部藩(解説)
 江戸時代、丹波の国・綾部藩(藩主・九鬼氏)は、外様二萬石の極小藩であった。藩士の数は約200人で、その4〜5割前後は江戸藩邸詰、他に京都藩邸詰も若干いた。
 綾部藩は江戸藩邸を経済的に支えるための費用を、大坂で捻出するために、生産物の米を船便で輸送していた。
 米を大坂に輸送するためには、由良川筋の綾部・福知山・田辺(現在の舞鶴市)各藩の領川を下り、日本海に運び出す必要があった。川を船で運送するためには、通行料のほか・船代・船頭・人足を他領から借用しなければならなかった。
綾部藩米は大嶋の津、今の中筋地区大島町から20石船で出港し、福知山で50石船に積替え、丹後の国・有路にいったん寄港、由良みなとから500石船、10 0 0石船に積替えて西廻り航路で大坂に運んだ。(大坂〜江戸間の輸送は、三井等の豪商が為替で精算・送金する)

 綾部藩は輸送航路のほとんどを他領・他藩に依存するため、通船料・運賃・船頭・人足料などの負担で、大坂に着いたときには米が何割も目減りしたという。
 領内の奥地から外洋に至る土地を領有する大藩は、運送路を他領・他藩に依存することがないためその差は大きかった。大藩は物資の運送を懸屋(かけや)に任せ、取扱いの特権を受けた廻船問屋の大商人たちは、他の湊に寄港する度に産物の売買で莫大な富を蓄積していった。たとえば、庄内平野(今の山形県酒田市)の本間家は北前航路で産を成し、「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」と唄われたぐらいであった。

 同じ石高の小藩であっても海添の藩とは財政的に大きな差を生む宿命を背負っていた。しかも、綾部藩は後の繭・生糸のような米に代わる産物を持たなかったため、山林から上る収益の小物成(米以外の諸税・雑税)も、山林の差配が山家藩の権益であったため、藩はいっそう困窮していたと言われている。

広小路・羽室家(解説)
 羽室家は寛永11年(1634)に綾部に入ったといわれ、商才を発揮、次第に産を成し、宝暦(1751)頃には幾家にも枝別れする経済力をもった。いずれも屋号を「京屋」と号し、領内中枢の綾部組・中筋組の大庄屋を世襲するようになった。
 広小路・羽室家は元禄5年(1692)に広小路の現在地に分家し、屋敷を構えることになった。(延村、現在の中筋地区延町の羽室嘉右衛門家は、元禄15年、町の羽室家から分家した。)
 その後、広小路・羽室家は領内の経済の中心地である綾部組(今の綾部小学区)12ケ村を束ねる大庄屋を代々勤めるようになった。
 江戸中期後、羽室家は懸崖(掛屋)として藩の出納を取り仕切るようになり、藩札の発行、両替等で藩の財政に深くかかわっていくと共に、酒造業・油搾業も営んでいった。
 しかしながら、同じ石高の他藩に比べ、米の換金での大きな差や、米以外の主産物・特産物をほとんどもたなかったため、流通や売買での利益の蓄積ができなかった綾部藩での御用商人、「羽室家の展示物」であることをおふくみいただきたい。

 明治に入ると、広小路・羽室家(九代当主・羽室榮吉)は、「郡是製絲創立」にかかわり、延村の羽室家(羽室嘉右衛門)、町の羽室家(羽室九左衛門・羽室荘治)と共に中心的な役割を担った。明治36年(1903)金融恐慌の影響(取立て騒動)で綾部の蚕糸業を中心とした三銀行(明瞭銀行・綾部銀行・綾部貯蓄銀行)は、解散の止むなきに追詰められた。
 その後、綾部三銀行の経営に参加した羽室一族(羽室榮吉・羽室九左衛門・羽室荘治・羽室嘉右衛門)と、大槻藤左衛門(山崎屋)、大槻重兵衛(扇屋)等は没落の一途をたどることになった。
 広小路・羽室家(羽室榮吉)は、こうした経済的背景の下で、辛うじて生延び現在に至っている。
 上述の歴史的背景を勘案の上で、「羽室家展」をご覧いただければ幸甚である。